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2014年7月度 史跡巡り
7月度 史跡めぐり
2014年7月15日(火)
鳥栖市の散策、参加者11名
出発 ⇒ 長崎街道・田代宿(鳥栖・田代八坂神社) ⇒ 轟木宿(日子神社) ⇒ 昼食(季楽)
⇒ 勝尾城(葛籠城跡) ⇒ ヒャーガンサン古墳 ⇒ 安永田遺跡 ⇒ くすり博物館 ⇒ 解散
梅雨真っ只中とあって今回も雨、一時は強い雨にもあいましたが長崎街道の二つの宿跡や中世の城跡、装飾古墳や弥生時代の鋳造遺構など幅広い歴史を堪能し、最後は薬の歴史まで、実に興味深い勉強ができました。
車3台に分乗し、田代八坂神社で待ち合わせしていたボランティアガイドの大石・中山・尼寺(女性)・江頭(女性)さん等と落ち合い、早速周辺の散策開始です。
長崎街道・田代宿
田代は対馬藩の代官所が置かれていた町で、長崎街道25宿の一つでした。江戸時代後期には人家500軒ほどもあったそうです。今も周りが掘割された木々の生い茂る一帯は、当時の賑わいを感じる街並みが残っていました。日田道や久留米道と分岐する交通の要衝で、分岐点には追分石が置かれ、当時の人々の往来が目に浮かぶようでした。
長崎街道・田代昌町追分石
津田家門(伝・代官所通用門)
前後の屋根の長さが違う矢喰門
田代八坂神社
宿内にある田代八坂神社は、戦国時代の領主筑紫氏が勧請した神社で、商人たちの守り神となっていました。境内には大黒さんを餅とねずみで表す石碑があります。
長崎街道・轟木宿
もう一つの轟木宿は、佐賀藩主が江戸参府や帰国の際宿泊した宿場で、佐賀藩と対馬藩のとの国境にあり、人や物を厳しくチェックする番所がありました。境界を流れる番所川には橋はなく、飛び石で渡ったようです。宿の中心にある日子神社の前の直線道路を利用して、休息中のシーボルトが天測を行い、轟木の位置を測定したという記録が残っています。
ここは主に、途中参加のガイドの石井さんに説明していただきました。
長崎街道・轟木宿跡(日子神社)・・この辺にお茶屋があった
~~~~~~~~~~~~~~本日の昼食~~~~~~~~~~~~~~~~
JAさが直営の「焼肉レストラン季楽」
焼肉定食(コーヒー付き) ¥1,190
さすが、JAの直営だけあってお肉もご飯もおいしかったです。
ご飯はお替り自由
勝尾城跡・葛籠城跡(国史跡)
勝尾城跡は、鳥栖北西部の城山(約500m)の山頂とその南山麓の谷筋に広がる、戦国時代後期の城下町遺跡です。北部九州で強大な力を発揮した筑紫氏(少弐氏の一門とされる)が、約90年間にわたり本拠としたところです。1586年の島津氏との6日間の攻防でいったん落城したが、翌月には奪還し、豊臣秀吉の九州平定軍に加わった城主筑紫広門は、その後筑後国上妻郡(八女)の大名となります。土塁・石垣等が残るという本城の勝尾城跡は登りませんでしたが、5つの支城の内の1つ葛籠城跡を見学しました。周囲には長大な二重の空堀と土塁で防備の最前線でした。
葛籠城跡
ヒャーガンサン古墳
ここは鳥栖市役所の島さんが特別に来ていただいて、めったに開けない鍵のかかった古墳の中に入って見学ができました。
ヒャーガンサン古墳は、玄室の奥壁に20㎝前後の3種の赤色の円文に点や十字の描かれた、装飾古墳として有名です。古墳時代後期の円墳で、墳丘は直径25m、高さ2m、複室両袖型の横穴式古墳です。できるだけ湿気や外の空気に触れないように鍵をかけて管理されています。もとは900mほど東の山手にあったものを移設保存しています。
「ヒャーガンサン」という地名は、「灰岩山」や「拝顔山」の字からの由来の他、山に入ると足腰が萎え、這って歩くようになった人が多かったため「這わせる神様(ハウカンサン)」がいる場所という説もあり、それらが訛ったものとも言われています。移設時もそのまま古墳名として使ったということで、一同名前の疑問が氷塊しました。
安永田遺跡(国史跡)
鳥栖市柚比町安永田あたりの一帯は、耕地整理の際に甕棺墓から銅戈が出土するなど、弥生時代の墓地として知られていました。昭和54年(1979)に現在の安永田史跡公園から銅鐸の鋳型が出土しました。九州地方にはないとされてきた銅鐸が作られていたことがわかり、大きな話題になりました。さらに甕棺墓地(約2100年前の)だけでなく、弥生時代中期後半~末(約2000年前)の集落跡が見つかりました。銅鐸や銅矛の鋳型の出土や炭化物が散在した住居跡が確認されたことで、青銅器を製作していた特殊な集落(青銅器鋳造工房)だったことがわかりました。
北側の狭い谷から吹き上げる強い風が、鞴(ふいご)の役を果たす適地だったのでしょうか。
史跡は国指定となり現在は史跡公園として整備され、10点の鋳型片は国重要文化財となっています。
安永田遺跡・青銅器鋳造工房跡
くすり博物館(中富記念館)
ここでガイドの皆さんとはお別れして、博物館の石井さんに案内していただきました。
佐賀県東部は、久光製薬など製薬業が盛んなところです。鳥栖市の田代地域一帯は、慶長4年(1599年)に対馬藩(宗氏)の支配下に置かれたこともあり、江戸時代には「田代売薬」が発祥しています。(田代売薬は富山、大和、近江売薬と並んで、四大売薬のひとつ)
そのゆかりの地1995年に開館した「くすり博物館」は、現在の薬に関する情報や、19世紀末のロンドンの薬局を移設再現し、日本の薬の歴史資料や鉱物、動物、植物から作った多数の珍しい生薬を展示しています。道具とともに展示してある、丸薬の作り方などは興味深いものでした。約400種の薬用植物が育てられている「薬木薬草園」も併設されています。
「病気は薬が治すのではなく、人の体の治癒力によって治るもの。薬は治す手助けをするだけ」
病気にならない生活と適切な薬の使用で、これからも元気に勉強しましょう!
くすり博物館玄関で
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
熱心に説明していただいたボランティアガイドの皆さま、楽しい話をありがとうございました。
後半は雨もあがり、満足の散策ができました。
参加の皆さんお疲れ様でした。
2014年7月15日(火)
鳥栖市の散策、参加者11名
出発 ⇒ 長崎街道・田代宿(鳥栖・田代八坂神社) ⇒ 轟木宿(日子神社) ⇒ 昼食(季楽)
⇒ 勝尾城(葛籠城跡) ⇒ ヒャーガンサン古墳 ⇒ 安永田遺跡 ⇒ くすり博物館 ⇒ 解散
梅雨真っ只中とあって今回も雨、一時は強い雨にもあいましたが長崎街道の二つの宿跡や中世の城跡、装飾古墳や弥生時代の鋳造遺構など幅広い歴史を堪能し、最後は薬の歴史まで、実に興味深い勉強ができました。
車3台に分乗し、田代八坂神社で待ち合わせしていたボランティアガイドの大石・中山・尼寺(女性)・江頭(女性)さん等と落ち合い、早速周辺の散策開始です。
長崎街道・田代宿
田代は対馬藩の代官所が置かれていた町で、長崎街道25宿の一つでした。江戸時代後期には人家500軒ほどもあったそうです。今も周りが掘割された木々の生い茂る一帯は、当時の賑わいを感じる街並みが残っていました。日田道や久留米道と分岐する交通の要衝で、分岐点には追分石が置かれ、当時の人々の往来が目に浮かぶようでした。
長崎街道・田代昌町追分石
津田家門(伝・代官所通用門)
前後の屋根の長さが違う矢喰門
田代八坂神社
宿内にある田代八坂神社は、戦国時代の領主筑紫氏が勧請した神社で、商人たちの守り神となっていました。境内には大黒さんを餅とねずみで表す石碑があります。
長崎街道・轟木宿
もう一つの轟木宿は、佐賀藩主が江戸参府や帰国の際宿泊した宿場で、佐賀藩と対馬藩のとの国境にあり、人や物を厳しくチェックする番所がありました。境界を流れる番所川には橋はなく、飛び石で渡ったようです。宿の中心にある日子神社の前の直線道路を利用して、休息中のシーボルトが天測を行い、轟木の位置を測定したという記録が残っています。
ここは主に、途中参加のガイドの石井さんに説明していただきました。
長崎街道・轟木宿跡(日子神社)・・この辺にお茶屋があった
~~~~~~~~~~~~~~本日の昼食~~~~~~~~~~~~~~~~
焼肉定食(コーヒー付き) ¥1,190
さすが、JAの直営だけあってお肉もご飯もおいしかったです。
ご飯はお替り自由
勝尾城跡・葛籠城跡(国史跡)
勝尾城跡は、鳥栖北西部の城山(約500m)の山頂とその南山麓の谷筋に広がる、戦国時代後期の城下町遺跡です。北部九州で強大な力を発揮した筑紫氏(少弐氏の一門とされる)が、約90年間にわたり本拠としたところです。1586年の島津氏との6日間の攻防でいったん落城したが、翌月には奪還し、豊臣秀吉の九州平定軍に加わった城主筑紫広門は、その後筑後国上妻郡(八女)の大名となります。土塁・石垣等が残るという本城の勝尾城跡は登りませんでしたが、5つの支城の内の1つ葛籠城跡を見学しました。周囲には長大な二重の空堀と土塁で防備の最前線でした。
葛籠城跡
ヒャーガンサン古墳
ここは鳥栖市役所の島さんが特別に来ていただいて、めったに開けない鍵のかかった古墳の中に入って見学ができました。
ヒャーガンサン古墳は、玄室の奥壁に20㎝前後の3種の赤色の円文に点や十字の描かれた、装飾古墳として有名です。古墳時代後期の円墳で、墳丘は直径25m、高さ2m、複室両袖型の横穴式古墳です。できるだけ湿気や外の空気に触れないように鍵をかけて管理されています。もとは900mほど東の山手にあったものを移設保存しています。
「ヒャーガンサン」という地名は、「灰岩山」や「拝顔山」の字からの由来の他、山に入ると足腰が萎え、這って歩くようになった人が多かったため「這わせる神様(ハウカンサン)」がいる場所という説もあり、それらが訛ったものとも言われています。移設時もそのまま古墳名として使ったということで、一同名前の疑問が氷塊しました。
安永田遺跡(国史跡)
鳥栖市柚比町安永田あたりの一帯は、耕地整理の際に甕棺墓から銅戈が出土するなど、弥生時代の墓地として知られていました。昭和54年(1979)に現在の安永田史跡公園から銅鐸の鋳型が出土しました。九州地方にはないとされてきた銅鐸が作られていたことがわかり、大きな話題になりました。さらに甕棺墓地(約2100年前の)だけでなく、弥生時代中期後半~末(約2000年前)の集落跡が見つかりました。銅鐸や銅矛の鋳型の出土や炭化物が散在した住居跡が確認されたことで、青銅器を製作していた特殊な集落(青銅器鋳造工房)だったことがわかりました。
北側の狭い谷から吹き上げる強い風が、鞴(ふいご)の役を果たす適地だったのでしょうか。
史跡は国指定となり現在は史跡公園として整備され、10点の鋳型片は国重要文化財となっています。
安永田遺跡・青銅器鋳造工房跡
くすり博物館(中富記念館)
ここでガイドの皆さんとはお別れして、博物館の石井さんに案内していただきました。
佐賀県東部は、久光製薬など製薬業が盛んなところです。鳥栖市の田代地域一帯は、慶長4年(1599年)に対馬藩(宗氏)の支配下に置かれたこともあり、江戸時代には「田代売薬」が発祥しています。(田代売薬は富山、大和、近江売薬と並んで、四大売薬のひとつ)
そのゆかりの地1995年に開館した「くすり博物館」は、現在の薬に関する情報や、19世紀末のロンドンの薬局を移設再現し、日本の薬の歴史資料や鉱物、動物、植物から作った多数の珍しい生薬を展示しています。道具とともに展示してある、丸薬の作り方などは興味深いものでした。約400種の薬用植物が育てられている「薬木薬草園」も併設されています。
「病気は薬が治すのではなく、人の体の治癒力によって治るもの。薬は治す手助けをするだけ」
病気にならない生活と適切な薬の使用で、これからも元気に勉強しましょう!
くすり博物館玄関で
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
熱心に説明していただいたボランティアガイドの皆さま、楽しい話をありがとうございました。
後半は雨もあがり、満足の散策ができました。
参加の皆さんお疲れ様でした。
by Fukuoka-heguri
| 2014-07-15 19:47
| 史跡巡り
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