史跡案内ボランティアガイド
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2017年11月度史跡巡り(小郡)
2017年 11月 史跡めぐり
2017年 11月21日(水)9時00分~17時10分 快晴
九州歴史資料館と小郡市内
参加者 11名
【史跡めぐり行程】
9:00戸切出発 ⇒ 10:00 九州歴史資料館 ⇒ 11:40 昼食 中國菜館「龍宮」
⇒ 12:40 小郡市埋蔵文化財調査センタ ⇒ 13:25 乙隈境石 ⇒ 13:35 野越堤
⇒ 13:55 花立山穴観音古墳 ⇒ 14:25 霊鷲寺 ⇒ 14:45薩摩街道松崎宿
⇒ 15:25上岩田遺跡 ⇒ 15:50 小郡官衙遺跡 ⇒ 16:10解散
朝から澄み切った秋空の快晴で、前日までの寒さも吹き飛んで、絶好の行楽日和となりました。久々に参加者も2桁を超え車3台で、何時もより遅めに戸切を出発しました。途中筑前・筑後・肥前の三国堺(石)を経由して、最初に九州歴史資料館を見学しました。
昼食を挟んで午後は、小郡埋蔵文化財調査センタに始まり、小郡市内の史跡をたっぷり案内していただきました。埋蔵文化財調査センタの山崎さん、「小郡市ボランティアガイド友の会」の大崎さん・尾形さんのご案内で、小郡の多様な文化と歴史を多角的に知ることができました。
大宰府にも近く、多くの国と境を接した地域には、それ故の独特の歴史が刻まれてきたようです。
九州歴史資料館(県立)
九州歴史資料館は静かな新しい街づくりの中に佇んでいます。九州の歴史と特質を明らかにするために、大宰府史跡の発掘調査を始め多角的な調査や研究が科学的に行われ、その成果が展示されています。
第4展示室
まず資料館職員の峯さんに、30分ほど館内の常設展示の案内をしていただきました。
峯さんは今年小学校の先生からの異動で、歴史の専門家でもないということでしたが、丁寧で十分わかりやすい案内でした。
第4展示室は、九州各地の遺跡で出土した遺構をそのまま移設し、足元で真上から見れるようになっています。一部の蛍光灯が切れていますが、専門業者でなくては蓋のガラスを開けられないそうで、取り替え費用が10万円もかかるとは驚きでした。
見学回廊
中庭からはぐるりと、発掘調査で出土した文化財の整理作業や最新機器による保存修理作業の工程を見学できます。光学調査室でX線CT(約1億円とか)により「形」を調査し、赤外線で成分を分析して素材を解析し、個々に合った保存修復行っています。文化財整理室では、土器や石器の復元作業などを見学できます。約60名の職員(期間採用含む)で、これらの根気のいる作業をしているそうです。
残りの時間は、ちょうど開催中の「発掘速報展2017 五ケ山」「大宰府を探るサイエンス」「福岡県の城」などを見学しました。
五ケ山出土の埋蔵銭
那珂川町五ケ山網取遺跡出土の埋蔵銭には、
中国や朝鮮半島などの実に様々な時代の古銭が
含まれていました。
山城の木炭画
「福岡県の城」では、廊下に展示された小畑政義氏(北九州・元競輪選手とか)の、平面の俯瞰図から想像復元した山城の木炭画は素晴らしいものでした。
~~~~~~~~~ 本日の昼食 ~~~~~~~~
中國菜館 龍宮(ロンクン)
今日の昼食は、資料館から5分位の、三沢の中國菜館「龍宮」です。
場所を検討中の9月末に、お昼のTVの食べ歩きで紹介していた中華のお店です。
Bランチ(1,080円)
日替わりのおかず3品の中から2品を選びます。
おいしくてボリュームたっぷり、ごはんもお代わり自由。
大満足のランチでした。
小郡市埋蔵文化財調査センター(市立)
10分ほど遅れて午後の見学は、埋蔵文化財調査センタからスタートです。事前にコース全体の時間割まで組んでいただいた、センターの文化財技師の山崎主査がお待ちでした。まず開催中の特別展「おごおり発掘50年」~史跡の保護と活用~を、30分ほど案内していただきました。
山崎さんの案内
これまでの史跡と発掘模様が頂いた立派な冊子にまとめられ、目の前の出土品でその成果が確認できました。
鉄鏃
まだ大宰府の発掘調査も始まっていない昭和42年に、あとで見学する奈良時代の小郡官衙遺跡から鉄鏃1000本が出土しました。ここから小郡の歴史の扉は開かれていきます。
鶏形土製品
3C末から4C初頭の「津古生掛古墳」から3体出土した珍しい「鶏形土製品」は、鶏が食用ではなく「象徴」や「信仰対象」だったと思われます。断片をこのような形に復元し"つこっコ"と名付けて、今はセンターのイメージキャラクターとして蘇りました。
「小郡市史跡案内ボランティア友の会」のガイドの尾形さん・大崎さんも合流しました。
センタの山崎さんの車の先導で、津古生掛古墳のある津古の方から乙隈へ向かいます。
筑後・筑前国境石
これから旧薩摩街道沿いを中心に史跡を見て回ります。最初は筑後・筑前国境石です。ここからは主にガイドの大崎さんの多岐にわたる詳しい説明でした。
現在の小郡市と筑紫野市の境にある、江戸時代後期に建てられた2つの石碑です。左の小郡側は久留米藩が建てたもので、久留米藩士佐田修平が書いた「従是南筑後国」の文字があります。右の筑紫野市側は福岡藩のもので、福岡藩の書家二川相近(すけちか)によるものです。それ以前も境石はありましたが、福岡藩が大きなものにしたので、久留米藩も負けじと更に大きいものに建て替え、このようになったと伝えられています。
野越提(のごしてい)(干潟 京ノ坪遺跡)
野越提は、昨年県道拡張工事の際新たに発見されたばかりで、現在史跡指定申請中だそうです。石垣や石敷で「隣の草場川からの野越しの流水による浸食を防止する」目的で構築されたもので、薩摩街道と野越提を兼ねる構造物になっています。「野越し」とは、敢えて盛土(堤)の一部を低く造り、洪水の際に限定的にその部分からのみオーバーフローさせる構造をいいます。
花立山穴観音古墳(県指定史跡)
街道をちょっとそれたところの花立山は、小郡市と筑前町の境にあり、田圃の中にぽつんと立つ小山で、小郡市側だけでも約300基の円墳等が見つかっているそうです。
花立山穴観音古墳は、6C末頃の前方後円墳で、全長35ⅿの横穴式石室で、石室の壁には格子模様が刻まれた「装飾古墳」です。内部には後から観音様が祀られていて、名前の由来になっています。先日バス研修で行った大刀洗の飛行場がすぐ近くにあり、第二次大戦中はこの山にたくさんの防空壕が掘られ軍需物資も隠していたため、この近辺は昭和20年の米軍の空襲で大きな犠牲がでました。
霊鷲寺(りょうじゅうじ)
薩摩街道に戻り、少し南へ下ったところの霊鷲寺は、寛文9年〈1669〉久留米支藩の松崎藩主となった有馬豊範が、延宝8年(1680)に三潴郡西牟田にあったものをこの地に移したものです。臨済宗の寺院で、勅願寺という格式の高い寺であるため、参勤交代で通る諸大名も前で駕籠や馬から下りて礼拝して通過したといわれています。松崎藩は、他家のお家騒動に連座して10年ほどしか続かず、この地は天領になった後また元の久留米藩に戻るなど、複雑な展開をしています。
霊鷲寺山門
山門は寛政6年のもので、梁には当地の有力者三原家と徳川家、本堂屋根の一番上には(元は本堂内にあり)天皇家の菊、徳川の葵など4種5つの紋付瓦がのっていました。
霊鷲寺本堂
山茶花
咲きはじめの境内の樹高2.5ⅿのサザンカは、「富士の峰」と呼ばれる種類でこれから年始にかけて千重の白い花を咲かせます。九州の栽培種のサザンカでは、最大規模といわれています。
松崎宿(旅籠油屋)
復元中の旅籠油屋
ここだけはNPO法人の「歴史を守る会」の磯部会長の説明を受けました。 旧松崎宿旅籠油屋は棟を分けた主屋と座敷から成り、主屋は建築中でした。手前が「座敷」です。江戸時代後期に建てられた本格的な旅籠(宿屋)です。解体時に柱に墨書が見つかり、座敷は1849年、主屋は1861~64年に建てられたことがわかりました。宿屋ならでは、旅人が描いたと思われる象の落書きも見つかったそうです。座敷の方に武士など位の高い人、主屋に一般客が泊まっていました。大名を泊める本陣は、近くにありましたが未発掘です。油屋には西郷隆盛が宿泊したと伝えられ、乃木希典が昼食をとったことがその日記からわかるそうです。
油屋の復元の完成は、平成30年だそうで、またその頃見たいものです。
座敷は8畳の3間が並んだ家です。
裏からの写真。 (右)磯部会長
胞衣壺
玄関を入ってすぐの部屋の床の下には、胞衣を入れた壺が埋められていました。家の子供のものと思われますが、いろんな人に踏まれることで魔除けと成長を願ったものということです。珍しい風習です。
枡形
外に出て北構口へ向かいます。枡形は、城郭造りに通じる構造で、道を直角に曲げて敵の侵入を鈍らせるようになっています。正面の建物は松崎宿資料館になっていました。
北構口
北側の宿場の出入り口で、南北4つの石垣がそのまま残っているのは全国的にも貴重だそうです。
上岩田遺跡(国指定史跡)
上岩田遺跡は、小郡官衙遺跡群のうち最も古い遺跡で、飛鳥時代(7世紀後半頃)に評家(役所)として整備されました。規則正しく建ち並ぶ掘立柱建物や、寺院の金堂と思われる基壇を持つ建物がありました。調査で瓦や硯、文字入り土器、帯金具などが出土しました。古代の役所としての機能と寺院機能の両方を兼ね備えた珍しい場所だったようです。天武7年(678)の筑紫国大地震(震度6以上)で破壊され、役所の機能は小郡官衙遺跡(2,1㎞西)へ、寺院は北西0.7㎞の井上(廃寺)へ移転しています。
基壇跡
基壇はもっと高いそうですが、保存のため周囲を埋めてあります。
夕方予定の有る山崎さんとは、ここでお別れです。
ガイドのお二人には引き続き案内をして頂きました。
小郡官衙遺跡(国指定史跡)
小郡官衙遺跡(二期の建物跡)
小郡官衙遺跡は、上岩田遺跡と併せて小郡官衙遺跡群として、国指定の史跡になっています。 7C末におかれた御原郡の役所跡で、推定方2町(240ⅿ)の区画に、政務をつかさどる「政庁」や税を保管する「正倉」のほかさまざまな建物が整然とした配置で建てられていました。 8C中頃になると全て新しく建て直されました(二期)。このとき掘られた溝の中から多量の鉄鏃(前述)が出土していることから、新しい掘立柱建物は、軍事的な役割を果たしていたと考えられます。
建物は三期(8C中~後半)を経て、大刀洗町の下高橋官衙遺跡に移ったことがわかっており、これほど詳細に官衙の変遷を知れる遺跡群は貴重なものです。
今回、松崎宿から上岩田遺跡に向かう途中で1台の車がはぐれ次の小郡官衙遺跡で合流するという思わぬハプニングもあり、最後の予定の御勢大霊石神社の見学とお土産の饅頭の仕入れをカットすることになりました。
それでも参加者全員が小郡の史跡の十分なボリュームと興味深さに満足して予定の時間に無事帰着しました。
ご案内の皆様には、丁寧で有意義なご説明と興味深いお話をたくさんありがとうございました。
皆さんお疲れ様でした.
2017年 11月21日(水)9時00分~17時10分 快晴
九州歴史資料館と小郡市内
参加者 11名
【史跡めぐり行程】
9:00戸切出発 ⇒ 10:00 九州歴史資料館 ⇒ 11:40 昼食 中國菜館「龍宮」
⇒ 12:40 小郡市埋蔵文化財調査センタ ⇒ 13:25 乙隈境石 ⇒ 13:35 野越堤
⇒ 13:55 花立山穴観音古墳 ⇒ 14:25 霊鷲寺 ⇒ 14:45薩摩街道松崎宿
⇒ 15:25上岩田遺跡 ⇒ 15:50 小郡官衙遺跡 ⇒ 16:10解散
朝から澄み切った秋空の快晴で、前日までの寒さも吹き飛んで、絶好の行楽日和となりました。久々に参加者も2桁を超え車3台で、何時もより遅めに戸切を出発しました。途中筑前・筑後・肥前の三国堺(石)を経由して、最初に九州歴史資料館を見学しました。
昼食を挟んで午後は、小郡埋蔵文化財調査センタに始まり、小郡市内の史跡をたっぷり案内していただきました。埋蔵文化財調査センタの山崎さん、「小郡市ボランティアガイド友の会」の大崎さん・尾形さんのご案内で、小郡の多様な文化と歴史を多角的に知ることができました。
大宰府にも近く、多くの国と境を接した地域には、それ故の独特の歴史が刻まれてきたようです。
九州歴史資料館(県立)
九州歴史資料館は静かな新しい街づくりの中に佇んでいます。九州の歴史と特質を明らかにするために、大宰府史跡の発掘調査を始め多角的な調査や研究が科学的に行われ、その成果が展示されています。
第4展示室
まず資料館職員の峯さんに、30分ほど館内の常設展示の案内をしていただきました。
峯さんは今年小学校の先生からの異動で、歴史の専門家でもないということでしたが、丁寧で十分わかりやすい案内でした。
第4展示室は、九州各地の遺跡で出土した遺構をそのまま移設し、足元で真上から見れるようになっています。一部の蛍光灯が切れていますが、専門業者でなくては蓋のガラスを開けられないそうで、取り替え費用が10万円もかかるとは驚きでした。
見学回廊
中庭からはぐるりと、発掘調査で出土した文化財の整理作業や最新機器による保存修理作業の工程を見学できます。光学調査室でX線CT(約1億円とか)により「形」を調査し、赤外線で成分を分析して素材を解析し、個々に合った保存修復行っています。文化財整理室では、土器や石器の復元作業などを見学できます。約60名の職員(期間採用含む)で、これらの根気のいる作業をしているそうです。
残りの時間は、ちょうど開催中の「発掘速報展2017 五ケ山」「大宰府を探るサイエンス」「福岡県の城」などを見学しました。
五ケ山出土の埋蔵銭
那珂川町五ケ山網取遺跡出土の埋蔵銭には、
中国や朝鮮半島などの実に様々な時代の古銭が
含まれていました。
山城の木炭画
「福岡県の城」では、廊下に展示された小畑政義氏(北九州・元競輪選手とか)の、平面の俯瞰図から想像復元した山城の木炭画は素晴らしいものでした。
~~~~~~~~~ 本日の昼食 ~~~~~~~~
中國菜館 龍宮(ロンクン)
今日の昼食は、資料館から5分位の、三沢の中國菜館「龍宮」です。
場所を検討中の9月末に、お昼のTVの食べ歩きで紹介していた中華のお店です。
Bランチ(1,080円)
日替わりのおかず3品の中から2品を選びます。
おいしくてボリュームたっぷり、ごはんもお代わり自由。
大満足のランチでした。
小郡市埋蔵文化財調査センター(市立)
10分ほど遅れて午後の見学は、埋蔵文化財調査センタからスタートです。事前にコース全体の時間割まで組んでいただいた、センターの文化財技師の山崎主査がお待ちでした。まず開催中の特別展「おごおり発掘50年」~史跡の保護と活用~を、30分ほど案内していただきました。
山崎さんの案内
これまでの史跡と発掘模様が頂いた立派な冊子にまとめられ、目の前の出土品でその成果が確認できました。
鉄鏃
まだ大宰府の発掘調査も始まっていない昭和42年に、あとで見学する奈良時代の小郡官衙遺跡から鉄鏃1000本が出土しました。ここから小郡の歴史の扉は開かれていきます。
鶏形土製品
3C末から4C初頭の「津古生掛古墳」から3体出土した珍しい「鶏形土製品」は、鶏が食用ではなく「象徴」や「信仰対象」だったと思われます。断片をこのような形に復元し"つこっコ"と名付けて、今はセンターのイメージキャラクターとして蘇りました。
「小郡市史跡案内ボランティア友の会」のガイドの尾形さん・大崎さんも合流しました。
センタの山崎さんの車の先導で、津古生掛古墳のある津古の方から乙隈へ向かいます。
筑後・筑前国境石
これから旧薩摩街道沿いを中心に史跡を見て回ります。最初は筑後・筑前国境石です。ここからは主にガイドの大崎さんの多岐にわたる詳しい説明でした。
現在の小郡市と筑紫野市の境にある、江戸時代後期に建てられた2つの石碑です。左の小郡側は久留米藩が建てたもので、久留米藩士佐田修平が書いた「従是南筑後国」の文字があります。右の筑紫野市側は福岡藩のもので、福岡藩の書家二川相近(すけちか)によるものです。それ以前も境石はありましたが、福岡藩が大きなものにしたので、久留米藩も負けじと更に大きいものに建て替え、このようになったと伝えられています。
野越提(のごしてい)(干潟 京ノ坪遺跡)
野越提は、昨年県道拡張工事の際新たに発見されたばかりで、現在史跡指定申請中だそうです。石垣や石敷で「隣の草場川からの野越しの流水による浸食を防止する」目的で構築されたもので、薩摩街道と野越提を兼ねる構造物になっています。「野越し」とは、敢えて盛土(堤)の一部を低く造り、洪水の際に限定的にその部分からのみオーバーフローさせる構造をいいます。
花立山穴観音古墳(県指定史跡)
街道をちょっとそれたところの花立山は、小郡市と筑前町の境にあり、田圃の中にぽつんと立つ小山で、小郡市側だけでも約300基の円墳等が見つかっているそうです。
花立山穴観音古墳は、6C末頃の前方後円墳で、全長35ⅿの横穴式石室で、石室の壁には格子模様が刻まれた「装飾古墳」です。内部には後から観音様が祀られていて、名前の由来になっています。先日バス研修で行った大刀洗の飛行場がすぐ近くにあり、第二次大戦中はこの山にたくさんの防空壕が掘られ軍需物資も隠していたため、この近辺は昭和20年の米軍の空襲で大きな犠牲がでました。
霊鷲寺(りょうじゅうじ)
薩摩街道に戻り、少し南へ下ったところの霊鷲寺は、寛文9年〈1669〉久留米支藩の松崎藩主となった有馬豊範が、延宝8年(1680)に三潴郡西牟田にあったものをこの地に移したものです。臨済宗の寺院で、勅願寺という格式の高い寺であるため、参勤交代で通る諸大名も前で駕籠や馬から下りて礼拝して通過したといわれています。松崎藩は、他家のお家騒動に連座して10年ほどしか続かず、この地は天領になった後また元の久留米藩に戻るなど、複雑な展開をしています。
霊鷲寺山門
霊鷲寺本堂
山茶花
咲きはじめの境内の樹高2.5ⅿのサザンカは、「富士の峰」と呼ばれる種類でこれから年始にかけて千重の白い花を咲かせます。九州の栽培種のサザンカでは、最大規模といわれています。
松崎宿(旅籠油屋)
復元中の旅籠油屋
ここだけはNPO法人の「歴史を守る会」の磯部会長の説明を受けました。 旧松崎宿旅籠油屋は棟を分けた主屋と座敷から成り、主屋は建築中でした。手前が「座敷」です。江戸時代後期に建てられた本格的な旅籠(宿屋)です。解体時に柱に墨書が見つかり、座敷は1849年、主屋は1861~64年に建てられたことがわかりました。宿屋ならでは、旅人が描いたと思われる象の落書きも見つかったそうです。座敷の方に武士など位の高い人、主屋に一般客が泊まっていました。大名を泊める本陣は、近くにありましたが未発掘です。油屋には西郷隆盛が宿泊したと伝えられ、乃木希典が昼食をとったことがその日記からわかるそうです。
油屋の復元の完成は、平成30年だそうで、またその頃見たいものです。
座敷は8畳の3間が並んだ家です。
裏からの写真。 (右)磯部会長
胞衣壺
玄関を入ってすぐの部屋の床の下には、胞衣を入れた壺が埋められていました。家の子供のものと思われますが、いろんな人に踏まれることで魔除けと成長を願ったものということです。珍しい風習です。
枡形
外に出て北構口へ向かいます。枡形は、城郭造りに通じる構造で、道を直角に曲げて敵の侵入を鈍らせるようになっています。正面の建物は松崎宿資料館になっていました。
北構口
北側の宿場の出入り口で、南北4つの石垣がそのまま残っているのは全国的にも貴重だそうです。
上岩田遺跡(国指定史跡)
上岩田遺跡は、小郡官衙遺跡群のうち最も古い遺跡で、飛鳥時代(7世紀後半頃)に評家(役所)として整備されました。規則正しく建ち並ぶ掘立柱建物や、寺院の金堂と思われる基壇を持つ建物がありました。調査で瓦や硯、文字入り土器、帯金具などが出土しました。古代の役所としての機能と寺院機能の両方を兼ね備えた珍しい場所だったようです。天武7年(678)の筑紫国大地震(震度6以上)で破壊され、役所の機能は小郡官衙遺跡(2,1㎞西)へ、寺院は北西0.7㎞の井上(廃寺)へ移転しています。
基壇跡
基壇はもっと高いそうですが、保存のため周囲を埋めてあります。
夕方予定の有る山崎さんとは、ここでお別れです。
ガイドのお二人には引き続き案内をして頂きました。
小郡官衙遺跡(国指定史跡)
小郡官衙遺跡(二期の建物跡)
小郡官衙遺跡は、上岩田遺跡と併せて小郡官衙遺跡群として、国指定の史跡になっています。 7C末におかれた御原郡の役所跡で、推定方2町(240ⅿ)の区画に、政務をつかさどる「政庁」や税を保管する「正倉」のほかさまざまな建物が整然とした配置で建てられていました。 8C中頃になると全て新しく建て直されました(二期)。このとき掘られた溝の中から多量の鉄鏃(前述)が出土していることから、新しい掘立柱建物は、軍事的な役割を果たしていたと考えられます。
それでも参加者全員が小郡の史跡の十分なボリュームと興味深さに満足して予定の時間に無事帰着しました。
ご案内の皆様には、丁寧で有意義なご説明と興味深いお話をたくさんありがとうございました。
皆さんお疲れ様でした.
by Fukuoka-heguri
| 2017-11-21 20:37
| 史跡巡り
|
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