史跡案内ボランティアガイド


by Fukuoka-heguri

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2017年6月度・史跡巡り

2017年6月 史跡巡り
2017年 6月20日(火)8時30分~17時00分 曇り後雨
久留米市内の史跡を訪ねて
参加者 7名

史跡めぐり行程
 8:30 出発 ⇒ 9:45 久留米城址 ⇒ 10:55 梅林寺 ⇒ 11:20 水天宮
⇒ 11:55 昼食「ブリジストンクラブ」⇒ 13:20 高良大社・神護石
⇒ 15:30草野資料館 ⇒ 16:00解散 

2013年3月19日以来、2度目の久留米市内の史跡巡りです。
九州北部は梅雨入りしていても今日まで雨がなかったのに、天気予報通り昼頃からポツリポツリと落ちだし、帰る頃には土砂降りとなりました。時間が押した上に雨が強くなっていたので、最後の草野の街並み歩きだけは取りやめましたが、他は何とか予定のコースをほぼ傘なしで満喫できたのは幸いでした。新会員2名を含む7名、車2台で、久々に九州自動車道を利用しました。




久留米城址の有馬記念館前で久留米観光ボランティアの会の草場会長と落ち合いました。
立派なお髭に歴史を感じます。会員は30名ほどいるとのことでしたが、今日のガイド担当は否応なしに、会長マターになったそうです。
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久留米城址

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久留米城は、初代藩主有馬豊氏が元和元年〈1621〉に入国して以来、江戸時代に筑後八郡を支配した有馬氏の居城でしたが、今は本丸跡だけ残っています。筑後川を背にし、南に市内を望む馬の背のような高台に、二の丸、三の丸、外郭の武家屋敷などが連なっていたそうです。

太鼓櫓跡
閑静な本丸跡を歩きます。大手枡形の左手の隅櫓(太鼓櫓)跡には、明治維新の際に勤皇に尽くした藩士(真木和泉守他)を偲ぶ、大きな記念碑「西海忠士の碑」が建っています。2005年の西方沖地震で倒れたそうですが、やっと立て直したそうです。
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篠山神社
久留米藩は、明治4年に反維新政府の乱で罰せられ廃城となり、後にすべての建物が徹底的に破却されましたが、明治12年に有志により、4名の旧藩主を祭神とした篠山神社が創建されました。ここにも少し時代を先駆け過ぎた、敗者の歴史が残っています。
北側の筑後川に面した艮櫓跡と乾櫓跡の一角は石垣がなく、自然の崖を利用しており、一帯は敵の侵入もままならない湿地帯だったそうです。久留米藩領だった八女出身ということで、白村江の戦いで捕虜になった「大伴部博麻の碑」も建っていました。筑後川を挟んだ対岸の佐賀藩とは仲が悪かったとか、久留米の誇りブリジストン創業者の石橋正二郎のエピソードも、ここで面白く聞きました。
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約10 車で移動

梅林寺
梅林寺は有馬氏の菩提寺です。臨済宗妙心寺派の古刹で、九州一の修行道場としても有名で今も多くの「○○窟」(道場等)の建物が周囲に建っています。


梅林寺山門
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山門を入ると、心落ち着く閑静な境内が広がっています。修行の場なので、大きな声で案内して怒られたことがあるそうです。梅林の名は、梅の木があるからではなく、初代藩主の諱の「梅林」からきています。

唐門と本堂
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天皇陛下しか通れない唐門だそうです。門扉には立派な木彫り細工が施してありました。


葵の紋のつく霊廟
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裏手の墓地には、各藩主の墓や霊廟、重臣の墓などもあります。初代藩主豊氏の霊廟(右三つ巴紋)の隣には、徳川家から嫁入りした室の霊廟(葵の紋入り)が並んでいます。

車で移動



詳しくはクリック
水天宮(国指定史跡)
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安徳天皇伝説が面白いものでした。その後も安徳天皇は田主丸竹野辺りで生き延びており、千代姫と結ばれできた子ではないかと思わせる人の記録が寺にあったという。今でもその地域には電話帳1頁分ほど安徳姓が残っており、平知盛(清盛の四男)の墓(平家塚)や平姓(でーらと呼ぶ)も多く残っている。平と名乗れなかった時代は名を変え、坂梨(さかなし=たいら)とした者もいるとか。まさにロマンです。

眞木和泉守の銅像
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幕末の勤王家眞木和泉守保臣は、第22代宮司です。境内には和泉守の銅像が建っていました。蛤御門の変で敗れ自死しましたが、後に新政府から顕彰され、今楠公ともよばれています。



~~~~~~~~  本日の昼食  ~~~~~~~~
           ブリジストンクラブ
        (ブリジストン久留米工場の前にあり、一般にも開放しています)

おろしハンバーグ定食・800円
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焼肉定食・800円
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メインのハンバーグも焼肉も柔らかくて美味しく価格もリーズナブルなランチでした。
料理だけでなく、お茶がとても美味しかったのにサービスの良さを感じました。



高良大社に向けて車で移動



高良大社(国重要文化財)
40年ぶりの大修理の真最中(6月末完了)で、参拝は仮の拝殿からしかできませんでしたが、屋根の真新しい檜皮葺きが黄金色に輝いていました。
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文化財に指定され、神社建築としては九州最大の大きさを誇ります。祭神は高良玉垂命(正殿)、八幡大神(左殿)、住吉大神(右殿)ですが、他にも諸説あるようです。仁徳天皇55年(78年?)鎮座、履中天王元年創建と伝えられています。大正4年には国幣大社とされています。
もともと高木神(高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座していたのを譲ったとの伝説があり、山の名前も高牟礼山が転じて高良山の良字を当てたという説もあるそうです。


高良大社宝物殿
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神官の岡部さんの案内で、宝物殿内の展示物の説明をお聞きしました。中世に描かれたという「絹本著色高良大社縁起」の大きな絵巻が見所です。近くの古墳で発掘された三角縁神獣鏡なども展示されていました。


神護石(国指定史跡)

馬蹄石(神護石)
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高良山神護石(国指定史跡)は、前記「高良大社縁起」の山内図では、高良大社参道にある磐座(馬蹄石)を神護石といい、山幅を取り巻く列石遺構は八葉の石畳と紹介していますが、明治時代に歴史学者が、列石遺構を神護石と紹介したため、以後学術用語になっています。今では神域説ではなく、山城説が定説になっていますが、名前だけはそのまま残っています。

大学稲荷神社前の列石遺構

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高良大社裏の列石
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神護石(列石遺構)は、高良山西側斜面に位置し、高良大社の本宮山(253m)を最高所とし、西方に二つの尾根沿いに5つの山と2つの谷を取り込むように築造され、総延長1.5㎞が確認されています。谷底には水門の石組も残っています。未確認の部分は地震で崩落したと推定されています。
古代山城遺構は26か所発見されていますが、朝鮮式山城と違い、神護石式山城は文献にも現われず、正確な築造時期は謎だそうです。

南谷水門跡
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谷に下りて、予定外の水門跡まで見学しました。
南谷水門の石塁の推定規模は、長さ約13m、高さ約4.5m、基底部幅約9.5mとされています。

予定時間を超過して最後の見学地へ車で移動


草野歴史資料館(国登録文化財)

移動途中また雨が降り出し、草野資料館の到着は1時間ほど遅れてしまいました。
草場さんとはここでお別れし、館内は館の筒井さん(女性)に時間を半分に急かして、案内していただきました。わかりやすい説明でした。
(写真は草野資料館HPより)
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草野歴史資料館は、当地に勢力を張った豪族草野氏ゆかりの資料や草野町の歴史に関する遺産などを展示しています。資料館の建物も明治時代末の旧草野銀行本店で、国登録文化財になっています。


b0273309_13571950.jpg雨の為街並み散策は中止
草野の城下町案内予定のボランティアガイドの方も、館内で2時間も待っていただいていたそうですが、外は強い雨となっており、時間も遅くなったため、やむなく街並み散策はあきらめました。



お城に城下町、お寺、神社、神護石の巡る自然と、実にバラエティに富んだ研修先で見所も多く、久留米の魅力を堪能しました。案内をお願いした「久留米観光ボランティア」の草野会長の久留米愛に満ちた巧みな語りで、歴史の裏のエピソードや、勝者の歴史に隠された有馬藩や安徳天皇・平氏の物語の数々も楽しく勉強できました。
初参加の2人の方も、史跡めぐりがこんなに楽しく勉強できるなんてと満足気でした。
皆さんお疲れ様でした。
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by Fukuoka-heguri | 2017-06-20 17:46 | 史跡巡り

2017年5月度・史跡巡り

2017年5月度・史跡巡り
2017年5月16日(火)
8時30分~16時30分 曇り時々晴れ
糸島・国宝と史跡コース 
参加者 10名

史跡めぐり行程
9:00伊都国歴史博物館 ⇒ 10:15怡土城跡・高祖神社 ⇒
10:50平原遺跡・旧藤瀬家住居跡 ⇒ 11:20 三雲南小路遺跡・細石神社 ⇒
11:45志登支石墓群⇒ 11:55志登神社 ⇒ 12:20昼食「田園茶屋いとわ」⇒ 13:20志摩歴史資料館
⇒ 14:10新町遺跡展示館 ⇒ 14:45宇美八幡宮(糸島) ⇒ 15:55解散

曇りで時々晴れ間がのぞき、さわやかな皐月の風を頬に受ける、絶好の散策日和でした。
今回は、近場なのにこれまで企画がなかった、史跡の宝庫糸島市の散策です。久々に2桁の参加者を得て、車3台賑やかに戸切を出発しました。
身内ながら糸島のグループでも活躍中の阿部さんに案内してもらい、各施設内の説明はそれぞれの専門家や宮司さんにお願いしました。
「国宝と史跡」と銘打つコースは、実に多彩で見所も多く、たくさん勉強出来た有意義な史跡めぐりとなりました。


伊都国歴史博物館
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9時の開館前には到着し開館を待ちました。伊都国歴史博物館は、平原王墓の出土品を中心に、糸島(伊都国)の歴史を余すところなく展示しています。

ボランティアガイドの岡部さんの案内
b0273309_1738395.jpg糸島の古代からの歴史を辿った後、いよいよ王墓の国宝登場です。三雲南小路・井原鑓溝・平原の3つの王墓の出土品は圧巻です。鏡の数と大きさに驚きます。鏡の紋様の意味やガラスの勾玉、平原王墓の発掘模型などの説明に、感嘆しきりでした。最後は4階から見える、豊かな糸島平野のパノラマまで案内してもらいました。この後の行程の予備知識にもなるので、予定時間を30分も延ばして、熱のこもった説明をしていただきました。



博物館を出て、高祖神社の方へ移動しました。


怡土城跡(国指定史跡)
怡土城は、奈良時代(8世紀)に吉備真備により高祖山に築かれた古代の山城で、山麓には約2㎞の長大な土塁と堀、ところどころに5つの望楼を配置して守りを固めていました。鎌倉時代からは、この地を治めた原田氏の居城(高祖山城)として、永きにわたり糸島平野を睨んでいました。

怡土城跡
登り口の土塁の上に怡土城跡の碑が建っています。
b0273309_2021683.jpg土塁跡 
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同じ道を少し登ると、高祖神社です。

高祖神社(県指定文化財)
高祖神社は、877(元慶元)年以前の創建と伝えられ、中世には原田氏の保護を受けました。現在の3間社流造の本殿は、1662(寛文2)年に3代黒田光行が修理した記録の残る、県内有数の古い神社建築です。怡土郡の惣社となっていました。戦国時代に高祖山城主だった原田種親が伝えたとされる高祖神楽(4月と10月奉納)も有名です。

高祖神社
b0273309_208637.jpg3月に40年ぶりに葺き替えが終わったばかりの
真新しい檜皮葺きの本殿
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次の予定の神功皇后所縁の「染井の井戸」は、時間の都合で飛ばして平原遺跡へ直行しました。





平原遺跡(国指定史跡)

平原王墓(1号墓)

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平原遺跡の1号墓は、豪華な副葬品からして、弥生時代後期(約1800年前)の伊都国王(女性)の墓といわれています。周溝を巡らせた18m×14mの墳丘墓で、中央の割竹形木棺の墓壙から出土したのが、博物館で見てきた日本最大(径約46.5㎝)の内行花文鏡5枚を始めとする銅鏡40枚や、珍しいガラスの勾玉、メノウ管玉、鉄素環頭太刀などは、すべて国宝に指定されています。


旧藤瀬家住宅(市指定文化財)
 旧藤瀬家住居跡
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平原歴史公園内に、場違いな江戸時代(1737年建築)の住居跡が復元されています。旧中津藩の糸島神在村の庄屋を務めた藤瀬家の住宅を移築したもので、残った古文書から建築時期がわかったという九州最古級の民家建築です。
ここから5分ほど移動したところも王墓の遺跡です。



三雲南小路遺跡(市指定史跡)
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三雲南小路遺跡は、弥生時代中期後半(紀元前1世紀頃)の遺跡で、江戸時代末(1822年)に1号甕棺が発見され、その後1975年の発掘調査で新たに2号甕棺が発見され、銅鏡22面以上、ヒスイ製勾玉、ガラス製勾玉、管玉などが出土しています。1号甕棺からは銅鏡35面、銅剣・銅矛・銅戈、勾玉、壁、金銅製四葉座飾金具など豪華な副葬品が出土しており、弥生時代の墓としては規模も巨大で、伊都国の王墓と考えられています。2号墓は王妃と考えられます。これらの出土品も博物館で見てきたばかりです。

 1.2号甕棺墓跡
b0273309_2022495.jpg現地は、甕棺墓の位置がわかるだけの草むらでした。すぐ見渡せる範囲のところに、やはり江戸時代に発見された井原鑓溝遺跡があります。三雲南小路のすぐ後の頃の伊都国王の墓とみられますが、今では王墓の場所は特定できず「幻の王墓」と呼ばれています。




細石(さざれいし)神社
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三雲南小路遺跡から道路を挟んですぐ隣は、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)と磐長姫命(イワナガヒメノミコト)を祭神とする、細石(さざれいし)神社があります。案内の阿部さんの話では、隣の王墓を守り遥拝する神社だったとのこと。以前は神田も多く大社でしたが、太閤検地で田畑を召し上げられ衰退したと伝えられています。その名前から「君が代」の起源がこの地域にあるという説もあるそうです。


志登支石墓群
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志登支石墓群は、古代には東西側から入り江が深く入り込み怡土と志摩半島をつなぐ細い台地であった付近で今は田圃の真ん中に、10基の支石墓が発見されています。弥生時代前期(約2500年前)から中期前半(2100年前)に造られたものです。支石墓は朝鮮半島に多く、半島のものとよく似た石鏃を副葬したものもありました。国内では長崎県と九州北部にしかなく、弥生文化の始まりを考える上で貴重な遺跡です。


志登神社
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昼食まで少し時間ができましたので、予定になかった近くの志登神社にも立ち寄りました。
志登神社は、祭神が豊玉姫命で、2014年の7月に不審火で全焼しましたが、1年位ですぐに再建されています。真新しい拝殿・本殿はかえって珍しい感じがしました。この神社の再生力に驚きです。



~~~~~~~~~ 本日の昼食 ~~~~~~~~~~~
             「田園茶屋 いとわ」
               町屋おばんざい定食 980円
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おばんざいとは京都の家庭料理を言いますが、有りあわせの素材でつくる簡単な料理のことだそうです。野菜が多くヘルシーで、味も申し分ありませんでした。
デザートにケーキが付いていたのでドリンクセットのコーヒー(200円)を追加しました。


お腹も満たして、午後の見学地の方へ戻ります。



志摩歴史資料館
b0273309_20411052.jpg糸島市役所志摩庁舎と同じ敷地内にある志摩歴史資料館は、志摩地域から出土した考古資料を展示しています。玄界灘に突き出た志摩地域は、古来大陸や半島との交易をはじめ、海を介した交流が活発で、遺物も海に関するものが多くなっています。


学芸員の河村さんの説明
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短い予定時間に合わせてポイントだけ選んで、それでも丁寧に解説していただきました。引津湾岸の御床松原遺跡から出た古代中国銭(貸泉・半両銭)や8世紀の古文書の戸籍、嘉永開潮止図(近世干拓の様子)、特にこれから行く新町遺跡の支石墓群については、事前の知識として興味深く聞きました。少しは延長しましたが、もう少しゆっくり見たい展示でした。





新町遺跡展示館
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展示館は無人ですが、実際の発掘遺跡の一部をそのまま展示しています。発掘された支石墓を主体とする墓域からは、全国でも珍しい弥生時代初期の埋葬人骨が出土しています。低願・低身長、抜歯痕があり縄文人の特徴が認められました。中には磨製石鏃が刺さったものもあったようで、この時期から戦闘があった痕跡を残しています。弥生文化は、渡来人だけの文化ではなく、縄文と弥生双方の要素の融合によって成立したと考えられる新しい見方を提供した貴重な遺跡で、墳墓群は国史跡に指定されています。
いろんな示唆を与える、支石墓の重要性を改めて認識しました。


20数分また山の方の川付というところに戻り、最後の見学地は宇美八幡宮です。


宇美八幡宮
武内宮司さんの説明
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宇美八幡宮本宮は、一般的な八幡宮の祭神ですが、上宮には神功皇后の夫仲哀天皇が祀られていると伝えられています。すらりと背の高い、第82代という武内宮司には、橿日(香椎?)宮で崩御された仲哀天皇が葬られたとされる神社の縁起、様々な古のお祭り、一と二の鳥居の間に三の鳥居が建てられた経緯など、たくさんの面白いお話を聞かせていただきました。武内宿祢に発するという宮司家の家系の話もありました。

本宮前全員で記念撮影
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宮司には、長い石段を登り本宮まで付き合って、絵馬や建物、神饌(神様に備える食事)の作り方なども細部まで説明していただきました。

御神木の樫の木

神社創建時からあり、樹齢千年以上はあると噂されています。
b0273309_20534848.jpg上宮石祠
本宮から参道を200mほど山中に入ると、仲哀天皇を祀るという上宮の石祠があります。ここら長嶽山一帯では古墳時代の14基の古墳群が見つかっています。当石祠は1号墳(前方後円墳)の上に建てられています。右横が2号墳です。
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藤棚と三の鳥居
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神社正面の参道脇の藤棚の花は見事ですが、連休明けまでは見られたそうです。         その藤棚の横で解散です。




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知名度は高いところばかりでしたが、知っているようで知らないことばかり。行って見て直接聞いて、新たに知ることは尽きることがありません。
「あと2回ぐらい糸島の史跡巡りを」「平群倶楽部に入って良かった」等の感想が聞かれた充実した良い史跡めぐりでした。         
ご案内の皆様にはそれぞれ、素晴らしい解説をありがとうございました。 
そして我らが阿部さん、皆さんお疲れ様でした。
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by Fukuoka-heguri | 2017-05-16 17:28 | 史跡巡り

2017年4月度・史跡巡り

2017年 史跡巡り

2017年4月18日(火)
佐賀市内(金立町~城内~与賀町)の散策
参加者 6名

【行程】
8:30出発⇒徐福長寿館⇒丸山遺跡⇒昼食⇒佐賀城本丸歴史館⇒与賀神社⇒15:00解散

昨日からの雨が早朝まで残っていましたが、出発するころには青空も見え始め、木々の新緑が前日の大雨に洗われてより美しく輝いて見えました。春爛漫、風も爽やかな心地よい一日でした。



詳しくはクリック
徐福長寿館・薬用植物園

徐福長寿館、薬用植物園は佐賀市金立総合公園内にあります。約2,200年前に秦の始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求め海を渡った徐福は、薬草フロフキを佐賀の地で発見したと伝えられています。その徐福にちなんで「健康と長寿」をテーマにした資料の展示や、徐福伝説を紹介する施設です。

徐福長寿館
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徐福さんが迎えてくれました。
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館内と薬用植物園を案内して頂いた東島さん
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薬用茶をいただきながら佐賀には徐福伝説が多く残る理由、邪馬台国や吉野ケ里遺跡との関わりなど興味深いお話も聞けました。


おたつさん
徐福さんが滞在中に恋仲になった
と伝えられています。
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平群版の徐福さんとおたつさん
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フロフキ(パンダカンアオイ)
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徐福が金立山中で仙人に導かれ不老不死の霊薬「フロフキ」(フロフキの名前の由来は不老長寿?)を手に入れたそうです。



薬用植物園
徐福長寿館の周りは不老不死の薬にちなんで薬用植物園になっていました。
ゆっくり散策したい所でしたが、時間の関係でほんのさわりだけの見学でした。

紅花トキワマンサク
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タラヨウ=ハガキノキ

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東島さんが葉っぱに楊枝で字を書かれました。
字が浮かび上がって・・・あーら不思議・・ご覧の通り
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他にも
甘味料に使われる甘~い葉っぱ
b0273309_1918274.jpg街路樹でおなじみb0273309_19184263.jpg



  



徐福長寿館から次の丸山遺跡まで徒歩で移動(15分~20分)
公園の中を歩きながらいろいろな花と出会いました。
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詳しくはクリック
丸山遺跡(久保泉丸山遺跡)

久保泉丸山遺跡小さな台地上にまとまって存在していた複合遺跡です。遺跡そのものは佐賀市久保泉町川久保に位置していましたが、長崎自動車道建設のために、この場所に移されました。

矢野さんが案内人になって解説
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主体部は竪穴式石室
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支石墓群
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~~~~~~~~~ 本日の昼食 ~~~~~~~~~

        白山文雅(しらやまぶんが)セレクト2色カレー ¥1,404
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佐賀市白山にある昭和32年創業の佐賀では知る人ぞ知る名店です。
平日限定のセレクト2色カレー、この日はシーフードとビーフをセレクト。
じっくり炒めた玉ねぎの甘味と旨味がスパイシーさとが相まって、いつものカレーとは一味違う。
みんなの第一声「おいしい!」
ライスは銀色の食器に入っていておかわり自由です。



 <昼食後、車で移動>

詳しくはクリック
佐賀城本丸歴史館

b0273309_21391254.jpg佐賀城本丸御殿の一部を忠実に復元した「佐賀城本丸歴史館」が佐賀城跡に建てられています。館内では、時代を先導した「幕末・維新期の佐賀」をテーマに佐賀城の復元や幕末・維新期を先導した佐賀藩の科学技術、佐賀が輩出した偉人について分かりやすく紹介しています。


           御玄関
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ボランティアガイドの瀬戸さん
約40分間、丁寧にご案内して頂きました。
スタッフは毎日約10人体制でご案内されているそうです。
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外御書院
一之間~四之間と廊下を合わせると320畳の大広間に。
現在ではイベントにも利用されているそうです。
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鯱の門
天保9年(1838)当時の姿を残して、
青空に鯱が映えます。
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佐賀城戦争の銃弾跡も生々しく残っています。
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御玄関前で記念撮影

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<車で移動>



詳しくはクリック
与賀神社

三の鳥居、石橋、楼門(国重要文化財)
宮司の中村さんに詳しいお話を伺いました。
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圧巻は樹齢1400年のクスノキ・佐賀県指定天然記念物
樹高=26ⅿ 幹回り=7.4ⅿ 枝張り=19ⅿ
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境内には他にも2本の大クスがあり
春に新葉がでる今頃、前年の葉は全部落ちるそうですから
毎日、掃いても掃いても・・・・
この新陳代謝が長寿の秘訣か?
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予定通りに15:00、与賀神社を最後に今日の史跡巡りは終了です。
与賀神社の駐車場で解散。
2台の車でそれぞれの帰路に着きました。
今日のメインは佐賀城本丸歴史館という案でしたが、徐福長寿館~丸山遺跡周辺の景観の美しさもカレーの美味しさも充分魅力的でした。花も団子も?
みなさん、お疲れ様でした。
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by Fukuoka-heguri | 2017-04-18 19:10 | 史跡巡り

2017年2月度・史跡巡り

2017年 2月 史跡めぐり

2017年 2月21日(火)9時00分~15時00分 晴れ
福岡市東区(東公園~百年蔵)の散策 
参加者 6名

史跡めぐり行程
東区ホテルレガロ駐車場 ⇒ 東公園 ⇒ 10:00松原水の井戸 ⇒ 10:20崇福寺
⇒ 11:00濡れ衣塚 ⇒ 11:30昼食(ホテルレガロ)⇒ 12:30博多百年蔵
⇒ 14:00やまや明太子工場見学 ⇒ 15:00解散

やや冷たい空気ながらも良い天気の中、先月に続き近場の散策になりました。
酒蔵や明太子の工場見学なども取り交ぜ、水や食料品といういつもと違う観点でも、福岡の歴史を感じることができる興味深い行程でした。
    
歩歩歩会の古賀会長(中央)
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午前中は、東区のボランティアガイド
歩歩歩(さんぽ)会の古賀会長に案内していただきました。
ベテランらしい幅広い知識に触れました。




東公園の梅林
最初の見学地に向かう途中の東公園、
梅が咲いていました。
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亀山上皇の像
元寇の時、敵国降伏をわが身に代えてと祈願されたという公園高台にある亀山上皇の像です。
高村光雲の弟子山崎朝雲の手になる像で1904年の建立です。
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松原水の井戸
松原水の井戸の前でガイドの古賀さんと待ち合わせです。今は水も枯れていますが昔の電車道の近くに井戸の跡が残っています。それまで市民は水をショッパイ井戸水でまかなっていましたが、明治29年(1896)付近では珍しく良い水の湧く東区の松原の中に、唯一の市設の井戸を掘り、市内に有料で配達していました。

松原水の井戸跡
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明治33年には、大正天皇が皇太子として来臨されここの水を差し上げたということです。
仲買が一石(180ℓ)10銭程で買い、小売業者に50銭で分け、大八車で戸別に配達(2ℓで5銭位?)していたそうです。大正12年に曲淵ダムが完成するまで続きました。


崇福寺
崇福寺は、1240年大宰府横岳に湛慧禅師により創建されましたが、初代藩主黒田長政により現在地に再建され、以後黒田家の菩提寺となりました。県の有形文化財の山門は、元は福岡城にあった本丸表御門で、大正7年に移築されています。本堂裏手には「福岡藩主黒田家墓所」がありますが、今は自由に出入りできなくなっており今回は行きませんでした。門前が唐津街道で、参勤交代で出立する藩主を、主だった家臣や許された庄屋や商人などが、この松原で決められた位置に並び「お見送り(松原出仕)」したそうです。

崇福寺山門
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横から見た山門
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唐破風門
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少し墓地の方に進むと、名島城から移設されたといわれる唐破風門があります。
少し痛んでいました。


三奈木黒田家の墓所
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墓地の方にまわると、三奈木(朝倉市)黒田家(官兵衛以来の重臣。明治期まで続く代々家老職)の墓所や玄洋社の墓地などもありました。見事に揃った五輪塔の形と数に歴史の長さが感じられます。豪商島井宗室の墓もあったそうですが、今はわからないとのこと。願掛け地蔵にお参りしてから博多区の方に移動しました。



濡れ衣塚
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御笠川の石堂大橋の近くの川縁に建つ「濡れ衣塚」は、聖武天皇の頃、継母に無実の罪をきせられて死んだ筑前国司の娘を供養したと伝えられています。「濡れ衣を着せる」の語源になっています。この板碑は玄武岩の自然石で康永三年(1344)の銘が入った梵字が3箇所に彫られています。元は聖福寺の正門近くにあったものが、江戸時代に御笠川の東に移され、河川改修のとき(平成13年)こちらに移築されました。

           記念撮影
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      ~~~~~~ 本日の昼食 ~~~~~~
        ホテルレガロ レストランのランチ
        金柑ゼリーのデザート付き ポークケチャップ(780円)
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     ガイドの古賀さんも一緒に早めの昼食にしました。
     コーヒーはおかわり自由とリーズナブル。
     残念ながらこのレストランは3月で店仕舞いだそうです。


博多百年蔵
築140年の明治の面影を伝え、国の有形文化財にも登録されています。
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石蔵酒造は、1587年ごろ福岡藩黒田家に帯同して姫路から中津へ移り、続いて1601年頃博多へ移ってきました。江戸時代は廻船問屋でしたが、江戸後期1850年頃から酒造業にも参入しました。幕末には、勤皇の高杉晋作や月形洗蔵等ともつながりがあったという記録があるそうです。最初の酒造場は昭和20年の空襲で焼失し、平成23年には現在の第2酒造場も火災で1000㎡が焼けましたが、分厚い屋根土が崩れ落ちて延焼を防ぎ、1階は奇跡的に残ったものだそうです。

創業者の子孫で、専務の石蔵さんに案内していただきました。

  酒蔵跡の結婚式場
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2年前に酒造用4棟が新設され、古い蔵はレストランや結婚式場として使われています。
運転手以外は試飲もでき、売店でお酒や酒まんじゅうなどのお土産を仕入れ、最後の見学地へ移動します。



やまや明太子工場
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最後はおまけで、東区松島の「やまや明太子」の工場見学をしました。杉村太蔵さんにそっくりの鳥羽さんに案内していただきました。ビデオで明太子の出来るまでを勉強し、工場で一つ一つ手作業で詰めていくラインを眺め、美味しい明太子も相当手間がかかっていることを知りました。工場は80名ほどで1日2万匹分(約4万個)の製品を処理しているそうです。原料のスケトウダラを発祥の韓国で明太(ミョンテ)ということで、その卵だから明太の子だそうです。一つ勉強しました。ごはん付きの試食のあと、ここでも売店でお土産を買って解散としました。


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バラエティに富んだ楽しい史跡めぐりでした。
案内の皆様ありがとうございました。       
皆様お疲れ様でした。
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by Fukuoka-heguri | 2017-02-21 17:38 | 史跡巡り

2017年1月度・史跡巡り

2017年 1月 史跡めぐり
2017年 1月18日(水)10時00分~12時15分 曇り後晴れ
福岡市中央区(薬院~桜坂~六本木)の散策 
 参加者 9名

史跡めぐり行程
 「四十八の谷と勤皇派」 
薬院大通駅出発 ⇒ 子烏神社 ⇒ 味噌喰い地蔵 ⇒ 加藤司書下屋敷跡 ⇒ 桜ヶ峰神社
⇒ フクロウの森 ⇒ 月形洗蔵居宅跡 ⇒ 野村望東尼生誕地 ⇒ 菊池霊社
⇒ 護国神社 ⇒ 草ヶ江万葉歌碑 ⇒ 六本松駅解散 
 
新年会を兼ねた史跡めぐりです。予報が見事にはずれ、日差しも暖かい穏やかな、この時季最高の散歩日和になりました。地下鉄薬院大通駅に集合し、10時に出発です。
ビル街や住宅地でさえ、こうして歩くとまた変わった雰囲気に感じられます。「48」のタイトルが示す通り起伏の多い地域で、坂だらけのコースでしたが、高台からの眺めが素晴らしく、車がやっと1台通れるような風情のある坂道を右へ左へと歴史を見つけ、宝探しのような面白さがありました。福岡城の南側の抑えとして下級武士の屋敷が多かったところで、日頃からさぞ足腰も鍛えられたことと思われます。 
開発の進んだ中央区でさえ、たくさんの歴史が詰まっていました。案内は福岡市観光案内ボランティアの矢口さんにお願いしました。おなじみのお顔で最初から和気あいあい、半日で手頃な楽しい新年初歩きになりました。終わった後は、おいしい香港料理の新年会でした。


小烏(こがらす)神社
薬院から警固地区に入るとすぐ坂が始まりました。階段を登ったところに「小烏神社」があります。祭神は建角身神(タケツノミノミコト:神武天皇建国ゆかりの八咫烏に化身)で、京都下加茂にも同じ神社があります。元は警固神社の場所にあったものを江戸時代に移設したものだそうで、古くから薬院村の産土神とされていました。

小烏神社
b0273309_16102071.jpg八咫烏
太陽の化身とされる三本足のカラスが
神武天皇の大和入りの道案内をしました。
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味噌喰地蔵
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小烏神社の裏手の坂道を少し行くと、途中の筑紫学園中のグランドあたりに、丸山古墳や茶臼山古墳がありました。今は見ることはできません。左手に少し入ったところに「味噌喰地蔵」の赤い鳥居が見えます。天保の大飢饉で、食べ物を求めて城下のお救い小屋に向かう途中、坂を登りつめたところで飢えて亡くなった人々の供養のために、200年前に地蔵が据えられ施餓鬼供養が行われました。その後大願のお供えに誰かが味噌を地蔵の口につけてから、味噌喰い地蔵と呼ばれるようになったと伝えられています。


加藤司書下屋敷跡
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少し下って筑紫女学園の近くを通って桜坂の真向いの大通りを渡り、桜坂2丁目の狭い路地に入ったところに、立派な門構えの家がありました。
その門の右脇に「加藤司書下屋敷跡」の石碑が建っています。表札は別の名前になっていますが、木々の多いこの森の小高いところに加藤家の屋敷がありました。加藤司書は幕末の筑前勤皇党として藩政を握り、薩長連合にも関与して家老職にまで就きましたが、幕府の長州征討決定で藩が幕府側に付き、王政復古の2年前に36歳の若さで切腹させられています。福岡藩は、維新の有為な人材をこの時(乙丑の獄)、多数(114名)失うことになりました。


桜ヶ峰神社と茶臼塚古墳
加藤司書の下屋敷跡の裏手の清助谷から坂を登ると「桜ヶ峰神社」です。桜ヶ峰神社は、江戸時代は地蔵堂でした。修験道場として、大宰府竈門山に入る修験者はここに参拝してから入山するしきたりだったそうです。昔は桜が多かったそうですが、今は境内に一本だけ残っていました。神社の前が茶臼塚古墳だそうです。
桜ヶ峰神社
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地獄谷
地獄谷を桜谷の方へ登ります。
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フクロウの森
高級な住宅街にもこんな森が残されています。
フクロウはいなくてもフクロウの石碑が建っています。
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月形洗蔵居宅跡
通りから右に20mほど入ったところに、「月形洗蔵の居宅跡」の石碑がありました。この奥の駐車場あたりに家があったそうです。洗蔵も福岡藩の勤皇派の指導者として活躍し、長州落ちした三条実美ら五卿を大宰府へ移す際の藩の接待役となったが、保守派の反感を買い、やはり乙丑の獄で処刑されました。映画や舞台などで有名な月形半平太のモデルの1人(武市半平太と)とされます。
右の新しい家の表札にも月形とありました。周辺は洗蔵所縁の家が多いそうです。
洗蔵居宅跡
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野村望東尼誕生地  
元に戻り少し下ると「野村望東尼の誕生の地」の石碑がありました。横の電柱の裏表に望東尼の歌と説明板が張り付けてあります。望東尼は女流歌人でしたが夫に死別後剃髪し、勤皇派の尼僧として志士たちを助けました。庵の平尾山荘は志士たちの隠れ家ともなり、西郷隆盛、平野國臣等とも親交を結びました。長州の高杉晋作には幽閉先の姫島から救出され、晩年を山口で過ごしています。晋作の「おもしろき こともなき世を おもしろく」に続けて「すみなすものは 心なりけり」の下の句を付けた歌も有名です。
望東尼生誕地石碑
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菊池霊社
坂を下りきると別府橋通りにぶつかります。大通り沿いに歩いて護国神社に渡る横断歩道の近くに、「菊池霊社」がありました。菊池霊社は、肥後の菊池武時の首塚です。武時は、1333年護良親王の令旨を受けて、鎌倉幕府の博多の鎮西探題を攻めましたが、少弐・大友両家に阻まれ敗退し、この場で斬首されました。胴体を埋めた七隈の菊池神社を胴塚とも呼ぶそうです。武時は後に、楠木正成に天皇への忠義の臣として賞されました。
菊池霊社
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護国神社
護国神社は1943年に建てられた(その後空襲を受け戦後再建)新しい神社で、戦争で亡くなった方の英霊が祀られています。境内には創建時の三千本の木々が歴史を紡いでいます。県民の献木で今では倍近くなったそうです。
護国神社で記念撮影
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 木製大鳥居
大濠公園側の大鳥居は創建時に台湾から運んだ檜製で、
高さ13m、直径1.6mの日本一の木製鳥居。
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広田弘毅銅像    
神社の前の斜め向かい側にある
福岡出身の総理大臣広田弘毅の銅像
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国体道路沿いに福大付属大濠高校の角をぐるりと回って六本松に向かいます。


草ヶ江万葉歌碑

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道路沿いの草ヶ江公民館の庭に、ひっそりと「万葉歌碑」が建てられています。
この辺は入り江(草香江)でしたが、福岡城築城時埋め立てが行われました。
万葉集に大友旅人が詠んだ
「草香江の入江にあさる葦鶴(あしたづ)のあなたづたづし友無しにして」という歌が残されています。

解散
12時15分、予定通りに六本松駅に着き解散しました。矢口さんには幅広く、味わいのある説明をありがとうございました。初詣のお参りもたくさんできて、楽しい有意義な史跡めぐりになりました。皆さんお疲れ様でした



b0273309_17131341.png~~~~~新年会~~~~~
六本松駅の近くの香港料理の「月珍さんのキッチン」のコース料理
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今年最初の史跡めぐりということで、昼食は西久保さんの幹事で新年会となりました。
シェフの小屋月珍さん(女性)はメディアでもたびたび取り上げられているそうです。有機野菜と薬膳を取り入れた家庭料理でした。疲れた体と喉に冷えたビールが沁みわたり、空いたお腹に点心やエビチリ、貝柱時菜などの料理にチャーハンとスープが格別おいしく感じられました。お腹いっぱい満足で帰途につきました。    
今年も大いに史跡巡りを楽しみましょう!
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by Fukuoka-heguri | 2017-01-18 16:06 | 史跡巡り

2016年 10月 史跡めぐり

2016年 10月 史跡めぐり
筑紫野市周辺の散策  
10月18日(火)8時30分~16時00分 晴れ
参加者 5名


史跡めぐり行程 
出発 ⇒ 筑紫神社 ⇒ 原田宿 ⇒ 五郎丸古墳 ⇒ 昼食「福龍」
⇒ 武蔵寺と周辺の史跡 ⇒ 筑紫野市歴史博物館 ⇒ 解散 

数日来の秋涼からやや強い日差しが戻る、秋晴れの良い天気となりました。
筑紫神社には約1時間も早く到着しましたが、本日のガイドの中村さんが既に境内でお待ちでした。筑紫の国名の語源ともなったと言われる神社と、神社の周りに伸びる長崎街道と原田宿、装飾古墳で有名な五郎山古墳見学の後は、二日市温泉街で昼食をとりました。
午後は天拝山歴史自然公園で、「つくし郷土会」の名本さん・岩下さんのお二人と落ち合って、現存する九州最古の寺と言われる武蔵寺とその周辺を散策しました。最後に筑紫野市歴史博物館では、学芸員の早瀬さんの案内で企画展「ちくしの博覧会」まで見学でき、今日歩いた筑紫野の歴史の総まとめができました。
福岡市からほど近い筑紫野市ですが、大宰府にも近い交通の要衝で、温泉地としても栄えた華やかな地域には、実に多様な歴史と伝説が織りこまれており、新しい発見がいくつもありました。ガイドの皆さんは、いずれもベテランの方ばかりでわかりやすく、ウンチクや裏話も楽しいものでした。ありがとうございました。
 
筑紫神社  
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筑紫神社は、筑紫という国号の語源になったといわれる歴史ある神社です。諸説あるそうですが、古代は筑前・筑後・肥前の三国の国境に位置するこの地で、荒ぶる神が峠を往きかう人を取り殺すので「命尽す(つくす)の神」と呼ばれ、後に「筑紫(つくし)の神」として祭られたら平穏が訪れたというのが伝説の一つです。奈良時代以前からの鎮座と思われますが、今は他に玉依姫、坂上田村麿も祭神となっています。鎌倉時代には、地頭職の筑紫氏が社司を兼ねていました。年中行事では、飯盛神社と同じ、「かゆ占い」(3月15日)が有名です。今年の出来予想は、中の上となっていました。

ガイド中村さん(中央)の説明
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中村さんは、普段は九州歴史資料館で活動をされているとかで、筑紫野市の方は個人的な繋がりで、協力されているそうです。


金木犀と十月桜
本殿横には芳しい金木犀と珍しい十月桜が
並んで咲いていました。
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元禄の鳥居
元禄12年(1699)に建てられた古い石の鳥居で、
「元禄の鳥居」と呼ばれています。
額の文字は、貝原益軒の要請で、京都の花山院内大臣定誠が書いたものとか。
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長崎街道 原田宿

神社をとりまくように長崎街道が巡っています。山家宿と肥前(鳥栖)の田代宿の中間に位置し、筑前・筑後・肥前の三国境の宿場町のため、西搆口の横に関番所が置かれ、厳重な手形改めが行われました。島原の乱(1638)の鎮圧のため松平信綱一行が50騎1300人余の軍勢で宿泊した記録があり、この頃には整備されていたと考えられます。幕末にはオランダ使節に随行した、ドイツ人医者のケンペルやシーボルトも通ったことを日記に残しています。博多街道(大宰府参詣道)への分岐が筑紫神社に残っています。


神社をとりまくように長崎街道が巡っています。山家宿と肥前(鳥栖)の田代宿の中間に位置し、筑前・筑後・肥前の三国境の宿場町のため、西搆口の横に関番所が置かれ、厳重な手形改めが行われました。島原の乱(1638)の鎮圧のため松平信綱一行が50騎1300人余の軍勢で宿泊した記録があり、この頃には整備されていたと考えられます。幕末にはオランダ使節に随行した、ドイツ人医者のケンペルやシーボルトも通ったことを日記に残しています。博多街道(大宰府参詣道)への分岐が筑紫神社に残っています。

長崎街道
神社の階段横を長崎街道が通ります。
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整備された長崎街道
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神社正面に伸びる街道はもともと直線だったそうですが、暴走族対策?でカーブがつけられ、きれいに整備されています。旧3号線だったそうですが、整備したためかえって、今は通る車もなくなってしまったとか。古い建物も少なく、街道の面影はほとんど留めていません

伯東寺境内の臼

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伯東寺境内の臼街道筋の伯東寺の境内には、原田宿名物の「はらふと(腹太)餅」をついていたといわれる、花崗岩をくり抜いた小さな石臼が伝わっています。「はらふと餅」は、丸くふっくらして中に塩餡(後には砂糖餡)が入った薄皮の餅だそうで、一つだけで腹いっぱいになり、大腹餅ともいわれるようになり、現在の大福餅の語源になったものです。




五郎山古墳(国史跡)
グビー選手の名前のような五郎山古墳は、昭和22年(1947)に山の地主さんによって偶然発見された、玄室の岩に見事な装飾壁画が施された古墳です。古墳館は、たまたま遠足がてらの大勢の幼稚園児の一行と重なったので、現地を先に見学することにしました。

 五郎山古墳入口
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五郎山古墳は、市内が一望できる小高い山の上にあり、一帯は公園になっています。途中に段を持つ二段築成の円墳で、6世紀後半のものといわれます。直径約35mのほぼ正円に近くなっています。裾には幅2mの溝が巡り、内側に1.5mのテラスが設けられています。全長11mの横穴式石室で、羨道は高さが前室側1.4m、入口側は0.9mと低くなっています。
今週末(22日)には石室内部が公開され、実物を見られるところでしたが、後で模擬体験します。

五郎山古墳館    
幼稚園児と入れ替わり、古墳館のビデオで少し勉強しました。古墳石室のレプリカが原寸大で造られており、現物以上に明確な壁画を鑑賞できました。

狭い羨道入口
入口は這わないと入れない低さで、老体には腰や膝に負担がかかります。
次第に高くなりますが、奥には鮮やかな装飾壁画が広がっていました。
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装飾壁画
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壁移動後の入口
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入退室に苦労したのに、見学の後で、電動での壁の移動を見せてもらいました。高齢者や体の不自由な人は立って、また車椅子でも入れるようになります。
ここで中村さんとはお別れです。これから自分も歴史講座の勉強に行かれるとか。お忙しい中
ありがとうございました。


~~~~~~~~本日の昼食~~~~~~~~~~
               中華料理「福龍」
              八宝菜定食(730円)
  
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昼食会場は、二日市温泉街(湯町)  
中華にしてはこってりせず比較的あっさりとした味でした。   



武蔵寺(ぶぞうじ)跡(県指定史跡)


天拝山歴史自然公園
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風情のある万葉の時代を思わせる、公園内の池に突き出た舞台では、歌会などいろんなイベントが行われるそうです。

藤原虎麿銅像
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舞台正面に、これから行く武蔵寺創建の伝承を持つ、長者藤原虎麿の銅像が立っています。銅像脇の長廊下の屋根の下で、「つくし郷土史会」の名本さんと、元会長の岩下さんのお二人がお待ちでした。



 武蔵寺山門
早速山門前で、まず岩下さんの説明
b0273309_1620997.jpg「椿花山武蔵寺」は奈良時代創建と思われるが不明な部分が多いそうで、縁起絵図によると、武蔵(むさし)村に住む藤原虎(麿)という長者が山にでる怪火の正体を確かめに山に入り、現れると弓矢で射落とした。その夜の夢枕で神将が現れ「射止めたのは薬師如来の霊で矢は霊木に刺さっているのでその木で薬師如来と十二神将の像を作り建物を建てて安置すれば、国や氏族が繁栄する」とのお告げで山へ行ってみると椿の大木に矢が刺さっていたので言われるとおりにし、堂塔を建立して末永く信奉した。山号「椿花山」もその仏像の原木に由来しているといわれている。


長者の藤
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満開時のイメージ
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境内にある、樹齢800年ともいわれる「長者の藤」(市の天然記念物)も、虎麿が「堂塔の盛衰はこの藤の栄枯にあらん」と誓って植えたと言われ、藤原の「藤」の木を植えたとも。毎年5月頃になると見事な花房で彩られ、参拝客で賑わうそうです。



武蔵寺は、南北朝から戦国時代(島津軍)までの度重なる戦禍で荒廃しましたが、裏山からは大治元年(1126)銘の入った経筒が出土しており、平安時代後期には栄華を誇り、大伽藍や、12寺と多くのお堂や経蔵、仁王門などがあったと伝えられています。

自然石梵字板碑

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山門横の、市指定文化財の「自然石梵字板碑」には、薬師如来を意味する梵字「バイ」が刻まれ、貞和3年(1347)の銘がある。これも虎麿長者の墓といわれています。奥の建物は、糸島生まれの南画家藤瀬冠邨の晩年の画室・半禅居だったそうです。


般若心経古塔
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境内左手に行くと、経が刻まれた石塔が並んでいます。左が全国でも数少ない般若心経の古塔。筆は黒田藩家臣で儒医の上村樗。実に石に彫られたとは思えないほど美しい字体です。右は比較的新しい般若心経の一字一石経塔です。

御自作天満宮
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御自作天満宮のご神体は、菅原道真が自ら刻んだ、自分の等身大木造座像といわれる。天満宮は1586年の岩屋城合戦で焼かれたが、ご神体の頭部だけ運び出され、元禄年間に福岡藩武蔵領主立花増弘が修復し社殿を建立して祀ったものといわれます。

紫藤の滝と古石塔

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大宰府に左遷された菅原道真が天拝山に登って無実を訴えた際、この滝で身を清めたといわれる。左手にはその時衣を掛けたという「衣掛の岩」があります。右の古塔(市有形文化財)には正平20年(1365)の銘が彫ってあります。

自詠菅公石碑

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道真が詠んだ歌碑で、28文字の書体の中に18羽の鳥が描かれているそうです。鳥になって早く京へ帰りたいとの思いがこもる。「鳥文字」「鳥点の筆法」というそうです。すべての鳥は確認できませんでした。大宰府天満宮にある実物は13羽とか。

五卿の歌碑

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武蔵寺山門脇に建つ石の歌碑。長州落ちした五卿の1人が詠んだもの。三条実美ら五卿は、大宰府遷座の際、筑前勤皇党の中心人物だった福岡藩月形洗蔵(後に藩の弾圧で投獄処刑)の案内で、天拝山や二日市温泉を訪れている。福岡藩の維新後の不遇は、勤王派弾圧や贋札事件によるが、洗蔵は後に顕彰されています。名本さんの締めの講談を面白く聞きました。




筑紫野市歴史博物館


ガイドのお二人にもお付き合いいただいて、最後の見学地「筑紫野市歴史博物館」に向かいます。博物館は、周辺で発掘された弥生時代の人骨や副葬品、長崎街道関連の古文書など原始から近世までの郷土資料を常設展示しています。今回は「「ちくしの博覧会」(指定文化財からたどる筑紫野
市の歴史と文化)の特別企画展が開催されていましたので、館の早瀬学芸員の案内で説明付きの見学ができました。

早瀬さんの解説
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筑紫の黎明から、やまの歴史と文化、戦と信仰、街道と宿場、近代の幕開けの構成で展示されており、わかりやすい説明で、本日の散策コースの総まとめがうまくできました。

武蔵寺経塚
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大宰府近郊は、四王寺山を中心に経塚密集地帯であるが、この中で最も古い経塚は武蔵寺経塚の中の一つだそうです。残念ながら盗掘されて経塚も個人の所有になっているが、その経筒には寛治8年(1094)の銘があるとか。これ以上の盗掘を防ぐために、発掘調査が三次にわたり計画されて7本の経筒が出土しました。瓔珞(ようらく)のついた見事な4号経塚出土の経筒(写真中央)もありました。

絵巻に残る武蔵寺
b0273309_16581721.jpg筑紫野には、実にいろんな伝承が残っていました。二日市温泉も、昔は「武蔵温泉」または「吹田の御湯」ともいわれ、殿さまや金持ちが使う、古くから良く知られた湯治場でした。久しぶりに通った温泉街も現在は少し寂しい佇まいになっていましたが、明治以降九州鉄道の開通で開発に拍車がかかり当時は大賑わいを呈したそうです。




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予定より早めに始まり早めに終わりました。
博物館で解散となり家路につきました。
楽しい説明とバラエティに富んだ史跡の魅力は、2016年最後の史跡巡りにふさわしい内容でした。
       皆さまお疲れ様でした。
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by Fukuoka-heguri | 2016-10-18 20:30 | 史跡巡り

2016年9月度・史跡巡り

2016年 9月度 史跡めぐり
2016年 9月21日(水)8時30分~17時30分 晴れ
~長崎街道 神埼宿・吉野ヶ里遺跡~ 参加者 7名


<史跡めぐり行程> 
 出発 ⇒ 神埼宿 [櫛田宮―本陣跡―脇本陣(真光寺・浄光寺―船津製麺所― 
昼食「神埼宿場茶屋」― 西木戸口] ⇒ ひのはしら一里塚 ⇒ 吉野ヶ里遺跡公園 ⇒
水車の里 ⇒ 白角折神社 ⇒ 九年庵・仁比山神社 ⇒ 解散 


昨日までの台風一過、やや風が強い分爽やかな秋晴れの良い行楽日和となりました。
神埼市役所駐車場には1時間も早く到着したため早目に案内を始めてもらいました。
本日のガイド
市役所観光課の執行さん

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情緒のある街道をそぞろ歩き、神崎宿西木戸近くで昼食をとり、午後は吉野ヶ里遺跡を歩きました。執行さんには、ご自分の予定をキャンセルして、吉野ヶ里までお付き合いしていただきました。簡潔でわかりやすい説明で知らなかった幅広い神埼の歴史が、手に取るように身近なものになりました。
帰り道で「水車の里」や樹齢千年の楠のある神社、そして予定外の「九年庵」まで立ち寄ることができました。
ほとんどの参加者が一度は訪問したことのあった吉野ヶ里ですが、国営で見事に整備され、発掘以来のその目覚ましい整備ぶりは、同じ国史跡の吉武高木と比べ、ただ羨ましいの一言でした。江戸と弥生、趣の異なる魅力に溢れた、素敵な史跡めぐりでした。



櫛田宮
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櫛田宮は景行天皇18年(約1900年前)に創祀されたと伝えられ、櫛稲田姫命・須佐之男命・日本武命を祭神とする、皇室領荘園「神埼荘」の総鎮守で櫛田三大明神とも称しました。農業神、厄除神として崇敬され、昔から中央とも密接な関係がありました。福岡の櫛田神社もここから勧請されたそうです。
境内にいろいろ見所があります。
琴の楠
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ご神木「琴の楠」は、樹齢7~800年と言われる楠の大木です。景行天皇が九州巡行の折立ち寄り、ここに琴を埋めたら芽が出て大きくなったという珍しい伝説が名前の由来とか。根は穴がスカスカで、二つに分かれていました。


石造肥前鳥居
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県重要文化財の石造の鳥居は、1602年に建立されたもので、基部が大きくなる柱と、笠木と島木が一帯となるなど肥前地方独特の鳥居です。積み重ねただけのように見えますが、先般の震度5の地震でも崩れませんでした。
神社の前が長崎街道です。



長崎街道 神埼宿
長崎街道は、長崎から小倉まで57里(228Km)の道で、その間の25の宿場のうちの1つが神埼宿です。5カ所の曲がり角を持つ細長い町で、東西に木戸口があり、本陣・脇本陣、高札場などが整った格式高い宿でした。町の中にはお寺の多さが目につきした。

櫛田宮から長崎街道へ
長崎街道は、鳥居の前で直角に曲がっています。それらしい古い白壁の家も残っています。
南の方へまっすぐに足を踏み出しました。
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 旧古賀銀行の建物
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田宮から出て左手の四角い建物は、大正時代に建てられた旧古賀銀行でした。少し進んで右手の神埼勤労者体育館がある辺りが本陣跡(お茶屋)でした。佐賀藩や長崎奉行が宿泊、休憩していました。当時の名残りは何もありません。

原岡家住宅
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原岡家住宅は、明治時代に精鑞業を営んだ原岡家の住宅で、現在神崎宿の中で最も古い住宅建築です。大火の後に建て替えられたそうで、白壁と本瓦に当時の繁栄を感じさせます。

真光寺・浄光寺(脇本陣)

真光寺の鐘楼は情緒があります。
今でもお堂に宿泊の武士達の声が聞こえてきそうです。
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真光寺・浄光寺は、街道が右折する道の左右のコーナーにあり、どちらも脇本陣として使われたお寺です。医者シーボルトも宿泊したことが記録に残されています。

浄光寺の鐘楼と本堂
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浄光寺の方は境内が広々していました。
坊守さんのお誘いで、お彼岸で開放中のまだ新しい本堂に上がり、少し休憩させていただきまし


船津製麺所
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神埼はソーメンが有名です。
嘉永年間(江戸末期)創業で今は6代目の船津製麺所に立ち寄り、お土産を仕入れる人も。結構屋内も歴史を感じさせます。


 ~~~~~~~~~~本日の昼食~~~~~~~~~~
西木戸口近くの「神埼宿場茶屋」の
             カツサラセット+そうめんコロッケ=800円
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デザートの苺(佐賀ほのか)のアイスクリーム付き
メインはとんかつでしたが、名物のそうめんコロッケにそうめん汁、旬の栗と山菜の炊き込みご飯。ボリューム満点で美味しかったです。


昼食後は、市役所の方が車で茶屋まで迎えに来ていただいて、運転手二人だけが駐車場に戻って、車をまわしました。皆さんが歩かなくていいようにと、お心遣いに恐縮です。


西木戸口
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午後は、街道の西のはずれ、宿場茶屋の近くの西木戸口からスタートです。
この先に城原川の渡し口がありました。当時は厳重な木戸を構え、午前6時頃開門、午後10時頃閉門だったそうです。神埼宿の木戸は門扇式ではなく戸板をつき上げて下をくぐる方式だったとか。ここから車で、東の木戸口の方に移動しました。

ひのはしら一里塚
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東木戸口の少し先に、長崎街道で唯一現存する一里塚(ひのはしら一里塚)があります。
江戸に向かって街道の左側に一里毎に目印として置かれた五間四方の築山で、当時の姿を保っています。ここは頂上に「いぼ地蔵」が祀られていたため、取り壊しを免れたとか。登るとけっこう眺望もききます。「ひのはしら」は、ここに櫛田宮の赤木の鳥居があったことに由来します。
ここから吉野ヶ里歴史公園へ移動しました。




歴史公園センター
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集落に渡る、天の浮橋の上から立派な公園センタを振り返ります。沖縄や高知の修学旅行生なども多数来ていました。

鳥居
丸太の門の上には魔除けのための木彫りの鳥が止まっており
「鳥居」の原型となりました。
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外環濠
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植生と動物
公園に植えられた木や草は弥生時代にあったものだけを植えたそうで、雑草までが手植えで植えられたと聞き、驚きました。
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南内郭(王や支配者層が住んでいた場所)


南内郭の集落
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見張り台
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見張り台から
地理的特徴の説明b0273309_16244744.jpg

見張り台に登り、360度の眺望を楽しみました。ここで吉野ヶ里の地理的特徴や歴史を詳細にわたって説明していただきました。歴代の王墓とみられる特別な北墳丘墓から北内郭、南内郭を結ぶ直線状には雲仙の普賢岳の噴火が見られ、西側の城原川が田畑を潤し、日の隈山の烽火台からいち早く情報が入り、東も遠く阿蘇が見え、北側の背振の山々に防御された重要な地であったことがわかります。

北内郭(まつりごとの場所)
ここまで足はのばしませんでしたが、北内郭は集落内で最も神聖な場所とされており、巨大な祭殿をはじめ9棟の建物が復元されています。

見張り台から見た祭殿
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弥生くらし館
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弥生くらし館では、ちょうど「よみがえる邪馬台国」企画展が開催されていましたので覗いてみました。奴国より東百里の謎のクニ「不弥国」の候補とみられる地域に焦点を当て、古賀や宗像、嘉麻などの多くの遺跡からの出土品を展示していました。


           北内郭をバックにマスコットと一緒に記念撮影
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ここで執行さんとはお別れしました。子供の頃、家の近くに古墳があって歴史に興味を持ち始めたとおっしゃる執行さん。ガイド歴20年のベテラン。よく勉強されており、実にわかりやすい満足のガイドでした。ありがとうございました。




水車の里
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帰りの県道21号線の途中に「水車の里遊学館」があり、立ち寄りました。先日朝倉の三連水車を見たばかりですが、精米・製粉で使われていた小ぶりの水車が回っています。


白角折(おしとり)神社

水車の里から少し川沿いの農道を行くとすぐ、日本武尊をご祭神とする白角折神社があり、境内には樹齢1000年以上と言われる県天然記念物の大楠があります。根回り20m以上で、巨象の足のようでした。
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樹齢1000年の大楠
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九年庵と仁比山(にいやま)神社
鬱蒼とした桜と紅葉の参道を登ります。途中に、佐賀の大実業家伊丹弥太郎の別邸と九年かけて築いた庭園があります。その14坪の茶室を九年庵といったそうです。国の名勝として紅葉のシーズンならもの凄く賑わうところですが玄関は鍵がかかっており周辺も今日は静寂に満ちていました。


九年庵
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九年庵周辺
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仁比山(にいやま)神社
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登りきると、木々に囲まれた仁比山神社です。天平元年に農業の神様として祀られ、山王さんと呼んで親しまれています。12年に一度申年4月に県の重要無形文化財「御田舞」が奉納されます。この境内も静かで、紅葉時期はさぞや美しいことと思われました。


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時間はぴったり予定通りの16時、ここで解散となりました。
三瀬の「松ちゃん」に寄って果物などお土産を仕入れてから家路につきました。
バラエティに富んだ、楽しい史跡めぐりでした。お疲れ様でした。
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by Fukuoka-heguri | 2016-09-21 20:23 | 史跡巡り

2016年7月度史跡巡り

2016年 7月 史跡めぐり
2016年 7月20日(水)9時00分~18時30分 晴れ
朝倉・秋月の散策、参加者 4名
史跡めぐり行程 
出発 ⇒平塚川添遺跡 ⇒ 昼食( 秋月・「秋月うどん」)⇒ 秋月城下町散策 [桜の馬場
― 瓦坂 ― 長屋門 ― 黒門 ― 秋月城址 ― 武家屋敷久野邸 ― 旧田代家住宅
― 旧商家(白木宅)―高木くず屋] ⇒ 山田堰 ⇒ 朝倉三連水車 ⇒ 解散 
   
二日前の梅雨明け発表のあとで30℃を超す暑さでしたが、木陰を吹きぬける時折の爽やかな風が、暑さを忘れさせてくれました。
甘木ICで高速を降り、最初の平塚川添遺跡へ向かいました。遺跡公園では、桑野指導員に、三大環濠集落とご自慢の広々とした環濠集落跡を案内していただきました。                                
秋月に移動する途中で昼食を済ませ、午後は「秋月ボランティアガイド」の白木さん(女性)の案内で、静かな秋月の城下町を散策しました。
その後朝倉に移動し、江戸時代に筑後川に築かれた山田堰と関連の三連水車を、「朝倉ボランティアガイド」の徳永さんに案内していただきました。筑後平野の農業の発展を支えた技術の高さ、それを手弁当で実現した延べ60万人という農民の力の逞しさに感動します。
新担当・深堀さんに代わって最初でしたが、見どころ満載の充実した史跡めぐりでした。


平塚川添遺跡(国史跡)
平塚川添遺跡公園
2万㎡の広々した遺跡公園は圧巻です。
桑野指導員は、元教師をされていたとの事で説明がやさしく丁寧でした。
我々の見学のために広い案内コースの草刈りをしていただいたそうで恐縮しました。
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環濠集落
再現された環濠と竪穴住居。右手は2棟の祭殿。
祭殿後方に首長館、左手には高床倉庫があります
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平塚川添遺跡は、弥生時代中期から古墳時代初期(いわゆる邪馬台国の時代)に営まれた大規模な「低地性多重環濠集落」で、現在は国史跡の公園になっています。最大6重もある多重の環濠は珍しく、環濠と環濠の間の柵列や物見台などの多さから、低地故の防御に腐心したのがわかります。公園には首長館や住居跡も復元され、弥生時代のクニの様子が窺えます。首長館の近くからは、小型倣製鏡や貸泉(1世紀頃の中国の貨幣)も見つかっているそうです。


甘木歴史資料館
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少し時間があったので予定外の甘木歴史資料館で平塚川添遺跡の出土品も見学できました。


 ~~~~~~~~~~本日の昼食~~~~~~~~~~
「女男石」の近くの「秋月うどん」
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「天ぷら定食」(980円)
他におからと昆布の煮物などが無料サービスというおまけ付きでボリューム満点の昼食でした。



秋月城下町散策
秋月は知る人ぞ知る、秋月黒田氏(黒田長政三男長興が初代で5万石)とその前の秋月氏(36万石)の約800年の栄華がひっそりと息づく城下町で、「筑前の小京都」と呼ばれる落ち着いた風情と四季折々の表情が人気の観光地です。街並みは、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。約2時間で、南側(観光地図の右側)半分の主に武家屋敷のコースを歩きました。
まず、登城路だった桜の名所の「杉の馬場」に入ります。ジェンナーより早く(1790年)、種痘を日本で初めて成功させた秋月藩医「緒方春朔顕彰の碑」が入口に建っています。近くにその屋敷跡もあります。


緒方春朔顕彰の碑
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現在の秋月郷土館入口
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この左手が、ルノアールや横山大観の絵なども所蔵している秋月郷土館ですが、あいにく秋月美術館として再建中で、入ることはできませんでした。平成29年秋完成予定だそうです。


瓦坂
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瓦坂は、現在登ったところには石垣があるが、城の正門の入口でこの奥に城がありました。土砂止めのため道には瓦を縦に埋め込んであります。


長屋門(県指定有形文化財)
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長屋門は唯一元の位置にある門とか。正しくは内馬場裏御門で、昔は中に側室の屋敷がありその通用門でした。門前の階段は、夫人が駕籠で出入りできるよう?低く広くなだらかになっています。

黒門(県指定有形文化財)
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戦国時代の秋月氏古処山城の裏門でしたが、黒田氏の秋月入封の際に御館の大手門にしたといわれる。その後この奥にある垂裕神社の神門として、現在の位置に移築されている。秋には周りのモミジが美しいところです。

久野邸(秋月武家屋敷)
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野邸は、初代長興公に仕えた上級武士の屋敷です。鳥栖にある久光製薬が、中富会長の母の生家ということで、老朽化していた屋敷を1994年に修理保存し、入館料300円で公開しています。


玄関から見た各部屋
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622坪の敷地に、数えきれないほどの部屋を持つ2階建ての邸宅と、奥には渡り廊下でつながった隠居部屋があり、北側の回遊式庭園や古処山も望める2階座敷からの眺望は素晴らしい。







旧田代家住宅(市指定文化財)
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旧田代家住宅は、初代藩主に付けられた家老田代外記から始まる家系を持つ、150石の上級武家の屋敷で、主屋・土蔵・門、土塀、庭が揃っています。1814年に焼失したが翌年に再建され、以後増改築が施されてきた。平成13年に市へ寄贈され、江戸後期頃の建物に復元整備されています。

旧商家(白木さん宅)
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260年歴史を持つ「高木くず屋」に案内していただく途中、ガイドの白木さんの家まで見せていただきました。昔は商家だったそうで、古の香りの残る当時のままの家の中からは、働く人の声が聞こえてくるようでした。ガイドが白木さんで得をした気分です。ご当人は北九州からお嫁に来られたとか。


高木くず屋
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くず屋でお茶をいただき、葛湯のお土産を仕入れました。隣は、壁に大きな「十手」を付けた、番屋のような風情のある警察署でした。
予定の時間になったので白木さんとお別れして、次の見学地に向かいます。楽しい案内でした。秋月のボランティアガイドは10名と少数精鋭で、観光シーズンは大忙しだそうです。


山田堰
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山田堰は、暴れん坊筑紫次郎の異名を持つ筑後川右岸の耕地の水田化のために設けられた井堰で、堀川用水により、現在は約670haの農地を潤しています。「傾斜堰床式石張堰」と呼ばれる堅牢な構造は、川の流れに対し斜めに造られている国内唯一の施設です。寛文3年(1633)に堀川用水が着工され、最初の150haの新田開発後、1790年の古賀百工の総石張りの完成まで建設が続きました。住民総出の手作業で始まった大規模工事は、人の英知とパワーの凄さを思い知らせてくれます。技術は、福岡出身の中村医師によりアフガニスタンにも移植されているそうです。最近の雨で水かさが増して、堰は流水に覆われており、中までは入れませんでした。


菱野の三連水車(国の史跡)
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中車・下車
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朝倉市には、この菱野の三連水車など3か所で7基の水車が稼働(6月中~10月中旬)しています。水力だけで自動的に回り続け、川面より高所の田圃に水を供給する灌漑装置です。3つで約35haを潤しています。水車は全て木造で鉄の釘も使わず、技術保存のため5年毎に作り変えているそうです。一番大きな上車は直径4.76mもあり、両側に各24個、19度の勾配の付いた48個の柄杓(15秒の1回転で386ℓ)がついています。樋にこぼれないように水を揚げていく絶妙の技術は、素朴な中に厳かな風格が感じられます。


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博学で多方面に造詣の深い徳永ガイドさんはまだ話足りないようでしたが、予定の時間になりここで解散となりました。見残したところもたくさんありましたが、またの楽しみに。
ガイドの皆さん暑い中ありがとうございました。
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by Fukuoka-heguri | 2016-07-20 19:39 | 史跡巡り

2016年5月度 史跡巡り

2016年 5月度 史跡めぐり

2016年 5月18日(水)9時00分~16時30分 晴れ
福岡平野の弥生遺跡散策(板付から春日市まで)、参加者 9名
史跡めぐり行程 
  出発 ⇒ 板付遺跡 ⇒ 金隈遺跡 ⇒ 昼食( 春日市・「宝や亭」)
⇒ (春日市散策)( 奴国の丘歴史資料館 ⇒ 奴国の丘歴史公園 ⇒ 熊野神社
⇒ 須玖岡本遺跡王墓跡 ⇒ 大土居水城跡 ) ⇒ 解散 

五月晴れの好天に恵まれ、爽やかな史跡めぐりでしたが、午後には日差しも強くなり汗ばむほどでした。
今回は近場の福岡平野の弥生遺跡に視点をあてました。都市高速西月隈出口で降りて、最初の板付遺跡へ向かいました。弥生館では、文化財保存課の山口指導員がお待ちでした。環濠周辺も案内していただきました。                                
次に15分ほど移動した金隈遺跡では、展示館の木村指導員(女性)の案内で、珍しい弥生人の人骨を掘り出したままの状態で見学しました。
春日市に移動して昼食後は、奴国の丘歴史資料館の中村課長補佐の案内で、館内と歴史公園やその周辺の王墓跡などの貴重な遺跡、更に小水城と呼ばれる大土居水城跡まで、多様な史跡を見学しました。
三大弥生遺跡を一気に巡って、はるか古のムラやクニの農業・工業などの産業と技術の高度さ、それに携わる人々の息吹を間近に感じられ、福岡平野が弥生時代に果たした役割の重要性を改めて認識できました。走行距離はいつもより短くても、充実した史跡めぐりでした。

板付遺跡(国史跡)

板付遺跡は福岡平野の中央に位置します。稲作の始まりを研究していた青年が、思惑通り昭和25年に近くの畑で縄文晩期(夜臼式)と弥生初期(板付式)の二つの土器を発見し、その後の詳細な発掘調査の結果、深い環濠に囲まれたムラや水田の跡が発掘され、日本で最初に稲作を始めた頃の様子がよくわかる遺跡として、昭和51年に国の史跡に指定されています。現在は水田や環濠も復元するなど史跡公園として整備され、弥生館は弥生時代の事を学ぶ施設として、出土品や関連する農具などのレプリカが多数展示されています。

板付遺跡弥生館
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山口指導員の講義
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講義形式でコメや鉄の歴史と弥生時代区分、他地域のコメの遺跡との違いなど、詳しく説明していただきました。我々がガイドをやっているというので特に念入りに、力を入れていただいたようでした。ここの米はジャポニカ種で、北のルート(半島)からの渡来ということでしたが、農業技術と水田システムが完成された形で導入されているそうです。
また、縄文人に下戸はいなかったそうですが、米文化圏には1%くらいの酒の飲めない下戸がいて、米と一緒に入ってきたということで、福岡は他より下戸が多目だとか。

環濠集落ジオラマ
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約2400年前に稲作や金属器などの技術を持ってきた人たちが、板付の台地の東西の低地に水田を作り、米作りを始めました。中央の台地には、幅6m深さ3mの濠が径108mの卵形に巡り、内側に食料の貯蔵穴や竪穴住居があります。数か所に甕棺や木棺の墓地があり、銅剣・銅矛も副葬されていました。

農具
米と一緒に鍬・鋤、石斧・石包丁など、
最近まで使っていたような農具も持ち込まれました。
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弥生人の足跡
水田に残っていた弥生人の足跡だけで、身長156㎝40才くらいの人とわかるんだそうです。左右残っていますが左足が大きく、別のところで同じ大きさに戻っているので、この時は重い荷を背負っていたということまで推定できるとか
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 復元された水田
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台地に沿って用水路を掘り、中には横木と木杭を組み合わせた井堰を設け、水田に送る水量を調整しました。水田は畔で長方形に区画されていました。復元された水田では、毎年春の村祭りで毎年実際に田植えが行われ、秋には稲穂を石包丁で摘み、杵や臼で脱穀して土器でコメを炊いたりする弥生時代の体験授業が行われています。

環濠
実際よりは浅く復元されていますが、
それでもかなり深いV字環濠です。
濠は時代とともに埋められて姿を消していきます。
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復元された竪穴式住居
台地のあちこちに住居や井戸がつくられ、
板付のムラは弥生時代の終わりまで続きます。
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金隈遺跡(国史跡)
 金隈遺跡展示館
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遺跡に屋根をかけるように建てられた金隈遺跡展示館では、甕棺や弥生人の人骨が発見されたままの状態で見学できます。

木村指導員の説明
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三体の人骨
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遺跡での出土人骨は136体と多く、発掘の少ない弥生人の人骨としては貴重な発見になっています。
人骨から死亡年齢のピークは1~6歳の小児が22体と多く、続いて40歳くらいが多かったようです。60歳以上は女性だけで、ある程度以上は今と同じく女性の方が長生きでした。なお成人男姓の平均身長は162.7㎝、女性が151.3㎝で、縄文人に比べて顔は面長で身長も高いのがわかりました。戦前の日本人よりも大きいとか。

ゴホウラ貝の腕輪
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副葬品として、種子島からオーストラリアまでの南海中にしかいないゴホウラ貝で作った腕輪の他に、石剣、石鏃、首飾り用の玉も見つかっており、金隈にもムラやクニの長がいたと思われます。先ほど見た板付遺跡の長では?という説もあったそうです。



    ~~~~~~ 本日の昼食 ~~~~~~

春日市にある京風懐石「宝や亭」

「日替御膳」(1080円)
 食後のコーヒー付き
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ボリュウムがあり、上品な盛り付けで器も美しく、肝心の味も期待を裏切りませんでした。
ご飯は白米と十六穀米が選べましたが十六穀米の評価が高かったようです。


須玖岡本遺跡(奴国の丘歴史資料館)

食時の後は31号線を真っすぐ10分ほど北上し、国の史跡「須玖岡本遺跡」の一部を取り込んだ奴国の丘歴史公園内にある、歴史資料館に向かいました。
奴国の丘歴史資料館では、館の中村課長補佐に案内していただきました。資料館には、春日市の発掘調査で出土した、「奴国」の中心とみられる須玖遺跡群の貴重な遺物を見ることができます。
特に各種青銅器鋳型が多く、まさにこの地が弥生時代のハイテク工業地だったことがよくわかります。

青銅器鋳造工房
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まず入口正面にある、弥生時代の青銅器生産工房の作業工程の説明を受けます。青銅器製作跡として初めて発掘された須玖永田A遺跡の成果を参考に、実物大で再現されているそうです。まさに汗が飛び、息遣いが聞こえてきそうなジオラマです。


王墓のジオラマ
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王墓の上石の復元b0273309_18373343.jpg
明治32年に、須玖岡本遺跡の一角で発見された甕棺墓の埋葬方法を参考に、真横から見られるように再現してあります。鏡など多くの副葬品をたずさえた奴国の王の埋葬姿が浮かびます。甕棺の角度は、もとは水平だったが、時代とともに立ってくるのだそうです。


出土した銅戈
b0273309_1843162.jpg銅戈の鋳型
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鏡の鋳型
b0273309_15504660.jpg 勾玉の鋳型b0273309_15512487.jpg

ガラスの勾玉と管玉
勾玉や管玉まで鋳型で作ったのですね。
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奴国の丘歴史公園
1時間ほど館内見学の後、外に出ました。館のすぐ西側の国の史跡指定部分は、奴国の丘歴史公園として整備されています。


王墓上石
丘の上には、奴国王墓の甕棺を覆っていたとされる
上石(市指定有形文化財)が移設されて展示されています。
長さ3.3ⅿ、幅1.8ⅿ、重さ4tの巨大さです。
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覆屋A棟
2つの覆屋では、甕棺墓を発掘時の状態のままで展示しています。
大人と子供の甕棺墓の横には祭祀遺跡とされる竪穴がありました。
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熊野神社
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公園北側に隣接し、岡本山の端に鎮座する熊野神社は、岡本地区の産土神で、創立は室町時代と伝えられます。社宝の「銅矛鋳型」は、国の重要文化財の指定を受けています。境内の樹木アラカシにはオオバヤドリギが着生しており、市の天然記念物となっています。本殿の下には古墳があります。さらに北の方へ神社の石段を下りて数分行きます。

須玖岡本遺跡(王墓地点)
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国の史跡の飛び地ですが、今は空き地になっています。ここが元々の王墓の跡です。公園にあった王墓の上石もここにありましたが、熊野神社に移され更に現在地に移設したものだそうです。30面前後の銅鏡や銅剣・銅矛・銅戈の武器類、ガラス壁はじめガラスの勾玉や管玉など多数の貴重な副葬品が出土し、他の墓からも離れて造られているので、ここが奴国王の墓と考えられています。
すぐ近くには王族の墓とみられる甕棺墓群も確認され、鉄剣や鉄矛も出土しているそうです。
   

記念撮影
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大土居水城跡(国指定特別史跡)



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水城は7世紀に唐・新羅の侵攻に対する大宰府防衛線として築かれた大防塁(土塁)で、国指定の特別史跡になっています。牛頸山系とし四王寺山系を結ぶ大宰府近くの水城は大水城といい、その他の小さな谷間を塞ぐ小水城がいくつかあり、大土居はその一つです。春日市にはもう一つ天神山水城があります。

土手の版築の地層
土手にはいたるところに版築跡の地層が見られます。
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水城の木樋
大土居水城跡で発見された木樋
(水城の土手の下を内から外へ通す水路)
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天神山水城跡
大土居水城跡の山の端から見える天神山。
この間も水城が繋がっていました。
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中村さんとはここでお別れしました。春日市の発掘調査に長年携わっていらっしゃるだけあって、説明は簡明でわかりやすく、奴国のイメージを浮き彫りにしていただきました。奴国愛が伝わる、楽しいご案内ありがとうございました。
野多目から高速に乗って帰りました。近場のため、いつもの帰りの買い物の楽しみはありませんでしたが、それ以上に知識のお土産が出来たことと思います。皆さんお疲れ様でした。
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by Fukuoka-heguri | 2016-05-21 18:49 | 史跡巡り

2016年4月度・史跡巡り

2016年 4月度 史跡めぐり

2016年 4月19日(火)8時30分~17時30分 晴れ
長崎街道・木屋瀬宿から直方城下町散策、 参加者 7名
史跡めぐり行程 
出発 ⇒ 木屋瀬みちの郷土資料館 ⇒ (木屋瀬宿街並み散策)( 町茶屋跡・船庄屋跡・旧高崎家・村庄屋跡・西搆口・興玉神社・関番所跡・妙蓮寺・須賀公園 )
⇒ 昼食( 直方・「丸窓」)⇒ (直方散策)( 中央公民館郷土資料室・直方藩主御塔所雲心寺・西徳寺・多賀神社・石炭記念館 ) ⇒ 解散 

少し曇ってヒンヤリの朝方から、午後は晴れて日差しも強くなり、気持ちのいい散策日和でした。
木屋瀬みちの郷土資料館を館内ガイド千々和さんの案内で館内を見学した後、木屋瀬街並みガイドの近藤さんに昼まで街並みを案内していただきました。

                         
漆喰白壁の整備された美しい街並みは、宿場らしい宿場で、往時の庶民の暮らしが息づいていました。時間の都合で西側半分の散策になりました。
午後は、直方の昼食会場までお迎えいただいた、歴史ボランティア直方を語る会「とおれんじ」の榊さん他5名の皆さんが一緒に、百年という短い歴史の城下町を案内していただきました。 
直方は、街道筋の城下町としての静かな雰囲気と、石炭産業で賑わった時代の荒々しい空気がそこかしこの史跡に混在する、不思議な魅力がありました。
どちらもガイド同業者の案内ということで気を使っていただいたようですが、丁寧でわかりやすい説明で、ついつい時間の経つのを忘れてしまいました。解散も16時と予定より少し遅くなりましたが、それだけ充実した史跡めぐりでした。
   

                  

木屋瀬(こやのせ)みちの郷土資料館  

入館時に立派な六宿案内本など、資料をたくさんいただきました。木屋瀬宿は黒崎と飯塚の中間に位置し、長崎街道筑前六宿の一つです。町茶屋跡に建てられた資料館を中心に、くの字形に曲がる約900mの大通りに、江戸時代の町屋の様式が見られる風情のある宿場町が残っています。まずは旅体験をテーマとした展示になっている、館内を見学しました。

   
 みちの郷土資料館 
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館内入り口
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江戸から昭和にわたる、街道と宿場・当時の暮らし・炭鉱など、木屋瀬に密着した歴史と文化を体験できます。30分ほど見学の後、近藤さんの案内で街に出ました。西構口方面に向かって、昔のままの広さの街道を気持ちよく歩きました。  

 資料館から西へ   
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宿場の中央寄り部分の建物は、明治42年の火災で約200軒が焼失したそうで、再建され漆喰も新しくなっていますが、端の方は古い建物が残っています。大通りを渡ると右が船庄屋跡です。



船庄屋跡(梅本家)
船庄屋は、江戸時代に木屋瀬で年貢米の輸送権利をもった24艘の川舟の管理をしていました。後期に中村家から梅本弥七郎に交代した。この梅本家は油屋と号し、酒醸造(明治以降は醤油醸造)を営んでいたそうです
 
船庄屋跡(梅本家)
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旧高崎家(伊野春部生家)
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高崎家は、かつて板場と呼ばれる絞蝋業(明治時代は醤油醸造業)を営んでいました。江戸末期の商家の代表的な宿場建築として修復し、公開されています。NHKラジオ連続ドラマ「向こう三軒両隣り」等を書いた放送作家「伊馬春部」の生家でもあり、その資料も展示されていました。



高崎家内

内部は、旧高崎家のガイドさんに隅々まで案内していただきました。
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五月人形
入ってすぐの部屋には豪華な五月人形が飾られていました。
畳は縁のない琉球畳で、質素に暮らしているように見せたそうです。
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船底天井
2階の部屋の天井は、珍しい丸い形の船底天井になっています。
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出隅・入隅
コの字になった2つの部屋の雨戸は、半分ずつ両端に全て収まります。
コーナーでは出隅(凸部分)入隅(凹部分)で雨戸をそのまま外さないでも滑るように、
巧みに造られています。入隅(いりすみ)は珍しいそうです。
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村庄屋跡(松尾家)
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村全体を統括する村庄屋は、旅籠などの宿庄屋、船庄屋とともに三庄屋の一つで、松尾家は問屋場の人馬差配役になった後安政5年(1858)に村庄屋を務め、明治になってからは木屋瀬村戸長も命じられたそうです。


西構口跡(にしかまえぐち)

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宿場の西の入口に設けられた構口は、道の両側に直角に石垣を組み、その上に白壁の練塀がありました。当時の石組が残り、市の史跡になっています。

追分道程
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道の角に追分道程があります。右へ行くと赤間道で、すぐ近くの遠賀川に突き当たるところに渡場跡がありました。左が飯塚へ行く長崎街道です。


興玉神社(猿田彦神社)
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興玉神社は1715年の創建で、旅の安全を守る猿田彦神が祀られています。興は沖に通じ、遠賀川の水運の安全を祈ったとの説も。この辺りに関番所跡があったそうです。
ここらでほぼ時間になり、急いで裏道を須賀公園の方に出て、資料館駐車場に戻りました。
東側半分が回れずお互いに心残りでしたが、また来る楽しみも残して、近藤さんとお別れです。
ここから車で、遠賀川沿いを直方へと移動しました。


~~~~~~~~~ 本日の昼食 ~~~~~~~~~~~~~~
「昼定食」(900円)
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本日の昼食は、ネット検索で決めた直方駅もほど近い和食・小料理の「丸窓」です。
揚げ出し豆腐メインの定食はボリュームたっぷりで、ご飯のお変わりは自由、デザート付きと実にリーズナブルで美味しかったです。


午後のガイドをお願いしていた、「とおれんじ」の榊事務局長に、丸窓までお迎えに来ていただきました。


郷土資料館(中央公民館)

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「とおれんじ」の定例会会場として使われているという、中央公民館に車で移動し、2階の「郷土資料室」を最初に案内していただきました。弥生時代以降の当地における出土品や高取焼の出土品などが展示されています。前庭には江戸時代の女流俳諧師「諸九尼」の自筆の句碑が建っていました。
ここから車で多賀神社に向かい、駐車場でお待ちの「とおれんじ」の香月会長等5名のメンバーの皆さんと合流しました。我々とあまり変わらない人数で歓迎していただき、恐縮の限りです。多賀神社の説明は後にして、散策開始です。

現在の東蓮寺
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元和9年(1623)に、黒田長政の4男高政が4万石でこちらに封じられた時の東蓮寺藩(後に直方藩に改称)は、この地にあった寺の名を取って付けられたものといわれていますが、多賀神社の西側の高台にある現在の東蓮寺は比較的新しいもので、場所も藩とも関係はないそうです。

直方城跡
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多賀神社の南側の丘の、家の密集する平坦部分あたりが直方城跡だそうです。

雲心寺(直方藩主御塔所)
 雲心寺本堂
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初代藩主高政公の供養塔
手前は4人の殉死者の墓塔です。
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炭鉱王貝島太助一族の墓所
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炭鉱王貝島家の初代から本家、分家一族の墓がずらりと並び、全て地下は回廊で通れるようにつながっているとか。他に五大炭鉱主の1人、掘三太郎家の墓所や、直方藩家老明石助九郎の墓もありました。


西徳寺
西徳寺山門
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西徳寺山門(市指定文化財)は、廃藩後に御館山にあった直方藩主館の横門を移築したと伝えられており、軒の下や瓦に黒田家の家紋である「藤巴」が見られます。藩政時代の貴重な遺構です。

西徳寺梵鐘
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林芙美子文学碑
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鐘楼には2つの梵鐘がありますが、下に据えられた梵鐘はもともと福岡城の鐘で、藩の儒学者貝原益軒の銘があり、寛文4年(1,664)福岡藩第三代光之公の命で鋳造されたものとわかります。戦時中の金属供出により寺を離れたが、運よく鋳つぶしを免れて戻り、割れて鳴らなくなったため取り替えたものだそうです。


多賀神社
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記念撮影
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多賀神社は、8世紀の古文書に記録も残るほど歴史は古く、兵火による焼失と再建を繰り返し、1636年に初代高政公が妙見神社として再建したものを、元禄4年(1691)第四代長清公のとき、御館山藩主居館新設に伴い北側の現在地に移転されました。元禄5年に宮司が藩主の命で勅許を願い出て、元の多賀神社に改めました。一の鳥居は第四代藩主の寄進で、石炭産業全盛時の蒸気機関車の煤煙で内側が洗っても取れないほど真っ黒に黒ずんでいます。鳥居自身が、見かけでも歴史を刻んでいるようです。
神社にお参りしてから、「とおれんじ」の皆さんも一緒に記念撮影です。この後「とおれんじ」の一部の方とはご挨拶してお別れしました。詳細な資料を準備していただき、主にご説明いただいた榊さんはじめ、メンバーの皆さまにはたいへんありがとうございました。直方の歴史がよくわかりました。

石炭記念館(市指定有形文化財)
最後は石炭記念館です。ここから館内の説明は、八尋館長に代わって案内していただきました。

前庭の機関車
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石炭記念館本館
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石炭記念館本館は、明治43年当時の筑豊石炭鉱業組合が直方会議所として建築したもので、昭和46年直方市に寄贈され、石炭記念館として利用されています。筑豊の石炭100年史を物語る、貴重な資料が展示されています。

 巨大石炭塊
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本館内の展示
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重さ2tの石炭塊は、「日本一」にはクレームがついたが「日本有数の大きさ」だそうで、八尋館長自慢の?展示物です。ペ・ヨンジュン似とのたまう館長の説明は、漫才を聞いているように楽しめました。二階には、世界遺産登録になるとレプリカしか見ることができなくなるという、山本作兵衛の本物の炭鉱の絵(撮影禁止)もありました。

練習用坑道跡
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裏には珍しい炭鉱災害救助班の練習用坑道も藤棚の奥にありました。今は入れなくなっていますが、整備して入れるようにしたいということでした。

名調子の説明に時間の経つのを忘れて、30分ほど予定を超過してしまいました。
最後までお付き合いいただいた「とおれんじ」の香月会長と駐車場でお別れし、榊さんには直方駅近くの、直方名物「成金饅頭」屋まで一緒に案内してもらいましたが、残念ながら売り切れでしたので、駅前の直方出身の元大関魁皇関の銅像を見て解散としました。

直方駅 魁皇関銅像
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実に多彩な史跡を駆け足で回った感じになりましたが、何処も有意義な史跡めぐりでした。各ガイドの方々も本当に良く勉強されているようで、ポイントをつかんでの説明は、我々のガイドにも大いに参考になりました。

帰りは、農産物直売所「しんNewグァーグァー市場」で、多少のお土産を仕入れて帰路につきました。皆さん遅くまでお疲れ様でした。
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by Fukuoka-heguri | 2016-04-19 19:05 | 史跡巡り