史跡案内ボランティアガイド


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2013年9月28日(土曜日) 定期ガイド

2013年9月28日(土曜日) 定期ガイド  
南金武・飯盛コース
南金武バス停(受付・挨拶・体操)→ かなたけの里公園(休憩)→ 夫婦塚古墳
→ 結城兵部小輔之墓・紙芝居 → 吉武萩原古墳群K7装飾古墳 → 飯盛文殊堂 
→ 昼食 → 飯盛神社 →吉武高木遺跡 → やよいの風公園(閉会の挨拶)
歩行距離 約7㌔

受付場所・南金武バス停
今年はいつまでも暑い日が続きますが、今日は秋晴れの良い天気です。
受付の後、コースの説明と準備運動をして出発です。
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かなたけの里公園
かなたけの里公園は、田・畑などで気軽に農作業に参加したり、そこに生息している
動植物を間近で観察できたり、その土地にあるものを皆なで作り・育てていくという、
これまでにはなかった楽しみ方ができる「里」の公園です。
今日は大勢の子供達が大人に交じって、稲刈りの体験をしていました。
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夫婦塚古墳夫婦塚古墳は名前の通り、以前は二つの古墳がありました。一号墳は、二号墳の北東40mの
ところにあったのですが、今は消滅して田んぼになっています。ここからは須恵器などとともに、茨城・群馬・山梨などの東国で多く出土している五鈴鏡が出ています。
五鈴鏡は鏡の外周に鈴を付けて、振ると音をたてるものです。中国にはなく、日本製です。
二号墳は羨道、前室、玄室と複室構造の両袖型の横穴式石室を持つ35mX35mの大きさで、
高さは約4.5mの、早良平野では珍しい方墳です。
横穴式石室の中に入って、巨石で造られた玄室を見ることができます。
石室の全長は11.5m、玄室は、幅2.45m、奥行き3.6mの長方形で天井高さが3.1mです。
壁は床から天井まで、花崗岩の一枚岩で築かれています。
驚きの巨石です。
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結城兵部小輔之墓
結城兵部少輔は、阿波の国(徳島県)の生まれの人です。
天文年中(1532年~1555年)、室町幕府第13代将軍足利義輝の勘気をこうむってしまい、
荒平城主の民部少輔小田部鎮元(しげとも)をたよってこの地にやってきた武人です。
小田部鎮元の情によって金武山原に居住し、ここの地名を乙石と名付けた人です。
乙石結城氏の先祖として、代々この地に住む子孫の人々が、この墓を守っています。

野方~金武の民話「結城どん」の紙芝居を演じました。b0273309_18432432.jpgb0273309_1844191.jpg



吉武萩原古墳群 K7装飾古墳(吉武熊山古墳群)
吉武萩原古墳群は、吉武熊山古墳群の手前の、道路を挟んだ左側の竹林の中にあり、
円墳が点在しています。
吉武熊山古墳群は、金武古墳群の東端に位置する一支群で、ほぼ南北に伸びる丘陵上
に12基の円墳があったのですが、造成のために3基が未調査のまま破壊され、現在
9基が残っています。その内の1基 K7号墳の玄室の奥と左右の腰石に装飾文様が
確認されています。しかし調査後玄室内は、粉末ホルマリンで密封されたので、今は
見る事はできません。
福岡市の装飾古墳は、ここと浦江1号墳のほか、博多区竹下の東光寺剣塚古墳、そし
て、那珂川町の丸の口古墳が確認されているだけです。 
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飯盛盛文殊堂
ここには、市の指定文化財になっている文殊菩薩騎獅像という仏像が伝わっています。
桧の寄木造で、全高が2.16mあるこの仏像は、鎌倉時代の末期、元弘3年(1333年)
仏師湛康(たんこう)が製作に着手し、南北朝時代の康永元年(1342年)に飯盛山真教院で、
開眼法要が行われたそうです。このあたり一帯には、その飯盛神社の神宮寺である
飯盛山真教院というお寺があったのですが、創建から約100年後、南北朝時代の戦乱に
巻き込まれて、寺も神社も、ほぼすべて焼けてしまったそうです。
明治時代には「学制発布」により、飯盛小学校がこの地に建てられました。
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飯盛神社
平安初期の貞観元年(859年)に、飯盛山全域を神域として創建された歴史のある神社です。
南北朝の戦乱(1353年)で焼失しましたが、江戸時代の1650年に2代藩主黒田忠之に
よって再建されました。
御祭神は伊邪那美命(イザナミノミコト)、玉依比売命(タマヨリヒメ・神武天皇の母神)そして
誉田別命(ホムタワケノミコト・応神天皇)が祀られています。
最盛期には上宮、中宮、下宮、それから神宮寺とその末寺が七か寺もあり、飯盛、吉武、
田村、四箇、羽根戸、野方の七か村の総社として、繁栄していました。
飯盛山頂上の上宮跡からは、瓦経が多数出土し、九州最古の瓦経遺跡とされています。
粥占い・小笠原流草鹿式・夜神楽・流鏑馬などの、多くの神事や、様々なご神宝・文化財
が伝えられています。
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草鹿式の神事(2013年3月17日)
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吉武高木遺跡
あの神奈備の山である飯盛山の裾野の、このあたり一帯を吉武遺跡群といいます。
弥生時代の前期末から後期初頭の遺跡で、甕棺墓、木棺墓が、10か所以上の群になっていて、総数で1200基も発掘されました。
今は埋め戻されていて、大石遺跡も樋渡遺跡も高木遺跡も、見ることはできません。
ここ吉武高木遺跡は、共同墓地から離れて独立していて、他より一回り以上大きな甕棺墓や標石をもった木棺墓が、整然と東北に向きを揃えて造られています。
ここからは、甕棺墓8基と木棺墓4基から青銅製の武器や,宝石で作られた装身具等多数の副葬品が、出土しました。
特にM3木棺墓からは、多紐細文鏡1面、細型銅剣2口、細型銅戈、細型銅矛、ヒスイで作られた勾玉や、碧玉製の管玉などが出土しました。つまり 鏡、剣、勾玉という、いわゆる三種の神器が、セットで出土したということで、我が国最古の王墓、幻の早良王国とマスコミが書き立て、全国的に有名になったのが、ここ吉武高木遺跡です。弥生戦士の墓である吉武大石遺跡も、発掘されました。
ここは、弥生時代の国の形の成立過程が、良く理解できる重要な遺跡であり、出土した副葬品は重要文化財に指定され、福岡市博物館に展示されています。
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やよいの風公園
吉武高木遺跡とその周辺を、史跡公園として整備する工事が、去年の10月から始まり、全体の1/4の広さの多目的広場と芝生公園がプレオープンしています。公募されていた公園の愛称も「やよいの風公園」に決定しました。
今後、中央広場が15年度、遺褠ゾーンが16年度の公開の予定です。
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平群倶楽部のメンバーの手造りの記念品をお土産に解散です。
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by Fukuoka-heguri | 2013-09-28 06:01 | 定期ガイド

西区歴史よかとこ案内人連絡協議会の日帰りバス研修  

平成25年度 西区歴史よかとこ案内人連絡協議会の日帰りバス研修  
2013年9月26日(木) 9.00~18.00
~杵築城とその城下町を訪ねて~

西区九電前(9.00発)~(大分自動車道・日出バイパス経由)~ 杵築城 ~ 昼食
杵築ふるさと産業館 ~ 番所の坂 ~ 酢屋の坂 ~ 志保屋の坂 ~ 大原邸~
磯矢邸 ~ きつき城下町資料館 ~(大分自動車道経由)~ 西区九電前(18.00)  

今年の西区歴史よかとこ案内人連絡協議会のバス研修は、大分県杵築市の、杵築城と
その城下町(豊後路の小京都)を訪ねました。

バスを降りて、急な石段をのぼると、国東塔や五輪塔等が集められた古代公園があり、
そしてその奥に、複元された3層の天守閣と築地塀がありました。
杵築城は、鎌倉時代の建長2年(1250年)に大友氏二代目親秀の六男親重(ちかしげ)が、
竹ノ尾の高台に築城したのが杵築城の起源で、その後、応永元年(1394年)に、木付氏四代目
である頼直が城をこの地へ移築して、城名を「木付城」としたのだそうです。
その後、1599年(慶長4年)からは、小倉藩主の細川氏、小笠原氏が城代を置いていましたが、
1645年(正保2年)に能見松平氏の松平英親公が豊後高田藩より移封され、それ以降は、
明治維新まで、能見松平氏が治めたそうです。
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昭和45年に復元されたこの天守閣内は、刀剣類や甲冑類を展示する、市の資料館となっていました。
平群倶楽部にとっては、去年の研修旅行でお馴染みの三浦梅園や、伊能忠敬の先生高橋至時の
師である、麻田剛立(ごうりゅう)の書などの資料も展示してありました。
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杵築ふるさと産業館の前からは「城下町きつきボランティア」の人の案内で、
城下町を散策しました。
ここは、江戸時代、松平三万二千石の城下町として栄えた町です。
南と北の高台に武士が住み、その谷間に商人が暮らす、日本唯一の『サンドイッチ型』の城下町として
有名なのだそうです。
まず、番所の坂を登って北台武家屋敷を見学しました。
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今でも江戸時代の風情が色濃く残る杵築の町は、全国初の「着物が似合う歴史的町並み」に
認定されているそうです。
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「サンドイッチ型城下町」の形状が、ひとめで分かる「酢屋の坂」を下り、商人の町を
横切って「志保屋の坂」を登りました。 
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南台武家屋敷の方の、きつき城下町資料館を見学し、南台の突端の展望台へ行きました
そこからは、杵築城と杵築大橋そして八坂川河口と、別府湾に続く海がみえました。
この海には、貴重な生きる化石と言われている「カブトガニ」をはじめとして、希少な
動植物が生息しているそうです。 杵築市の汚水蓋の図柄は「カブトガニ」でした。
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ほぼ時間通りに、無事姪浜に到着しました。
よかとこ案内人連絡協議会の皆さん、ありがとうございました。
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by Fukuoka-heguri | 2013-09-26 20:59 | 日帰りバス研修

2013年9月度史跡巡り

2013年9月度史跡巡り
みやま市・女山神籠・清水寺・石神山古墳 

出発 → 広川SB休憩 → みやま市瀬高町 梅野家 → 長谷水門 → 
梅野資料館 → 女山神籠石 →神籠石山内古墳 →女山史跡森林公園展望台 
→ 昼食 → 清水寺本堂・三重塔 → 清水寺本坊庭園 →
高田町 石神山古墳

「みやま市」は、山門郡の瀬高町と山川町、三池郡の高田町の三町が合併して
平成19年に誕生したばかりの、新しい「市」です。
まず、みやま市瀬高町の女山(ぞやま)史跡、それから清水寺を見学しました。
女山史跡と清水寺は、瀬高郷土史会の人が案内をしてくれました。
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女山(ぞやま)は、もともとは「女王山」と呼ばれていたのだそうです。この地方は
もとは山門郡です。ヤマトと女王山。瀬高町は「卑弥呼の里」なのです。

神籠石は、一辺が70cm位の立方体に加工された砂れき石を、山腹に一列に並べて、
山頂をぐるりととり囲む列石と、これを横切る谷間に、切り石を積んで築かれた
石塁・水門からなる列石遺構です。

長谷水門は、江戸時代の始めのころからこの地にある旧家の、梅野家の敷地の奥に
ありました。水門を見ると、神籠石の築造目的は「山城説」が正しいように思えます。
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梅野家の土蔵造りの建物が「梅野家歴史資料館」です。
先祖伝来の所有物や、所有地の裏山にある古墳から発掘されたものも数多く展示されて
います。古墳時代の装身具「金環・銅環」、弥生時代中期の「勾玉の首飾り」などなど、
歴史的価値のあるものが保管されていました。
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神籠石とは、久留米の高良大社境内を囲む列石を、古くから神籠石と呼んでいたため、
その後、同じ様な列石の遺構が北九州のあちこちで発見されると、すべて神籠石と呼ぶ
ようになったのだそうです。その築造目的については、神域説と山城説があるのですが、
昭和46年の調査で、石の背面に土を盛り固めた積土と、石の前面には3メートル間隔の
柱穴が発見され、今は山城説が有力なのだそうです。
卑弥呼の居城・筑紫君磐井の戦争・白村江の戦いの影響などが、考えられているようです。
女山神籠石の列石に囲まれた内部には、女山古墳群がありました。そのうちの山内古墳群
を見学しました。6世紀後半に築造されたと考えられている、横穴式石室を持つ円墳でした。
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女山史跡森林公園の展望台からは、筑後平野が一望できました。
新幹線の船小屋駅、有明海、遠くに雲仙普賢岳も見えました。
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女山の真下、筑後平野の真ん中に、卑弥呼の墓とも考えられている美しく整備された、権現塚古墳がみえます。
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午後清水寺へ行きました。
この三重塔は、柳川領内武住民と近国信者の寄進によって、天保7年(1836年)に落成したそうです。
最初は大阪の四天王寺の塔をモデルに、五重塔をつくる予定でしたが、途中で棟梁が亡くなり、嫡男がこれを引き継ぎ、三重塔として完成させたということです。
広島県尾道市の天寧寺三重塔は、南北朝時代の古い五重塔を改修して三重塔にしたものです。どちらも同じ様にズングリとして、それなりの風格があります。
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大阪四天王寺五重塔 
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尾道市の天寧寺三重塔 
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本吉山清水寺は天台宗の開祖、伝教大師最澄によって開かれた古刹です。その後幾多の焼失があり、現在の本堂は、昭和12年再建立されたものだそうです。
威嚇する「構え」の狛犬がいました。
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清水寺楼門は木造入母屋二層造りの、堂々とした門です。階上には、釈迦如来・文殊菩薩と四天王の像が安置されているということですが、見る事は出来ません。
下層では、獅子が、ア・ウンの呼吸で紅梁の両端を支えていました。
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次に高田町の石神山古墳(せきじんさんこふん)へ行きました。
ここは、みやま市社会教育課の人が、案内をしてくれました。
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石神山古墳は5世紀中頃の前方後円墳で、標高56mに位置し、墳丘長さ58.5mの
大きさの古墳と推定されているそうです。
明治44年5月に開墾中に、ここから武装石人一体と三基の刳り抜き式の舟形石棺が発見されたということです。石棺を納める石室等の施設はみられず、直葬されたのではないかという説明でした。
八女の石人山古墳と比較すると、武装石人はよく似ていますが、埋葬施設は違っています。
石人山古墳と石神山古墳は、どの様な関係があるのでしょうか。
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9月度の史跡巡りは、無事終了しました。
瀬高郷土史会のお二人それからみやま市社会教育課のお二人、ありがとうございました。
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by Fukuoka-heguri | 2013-09-17 17:23 | 史跡巡り